三根山藩は長岡藩2代藩主牧野忠成の四男牧野定成が、
蒲原郡三根山の新田6千石を分知されて分家を興し、
寄合旗本となったことに始まります。
その後の文久2年。
三根山牧野家は高直しにより1万1千石となり、
諸藩に列して三根山藩が立藩しました。
「三根山藩址公園」。
看板は「入徳館野外研修場」となっていますが、
入徳館野外研修場は道路向かいの入徳館小学校跡。
「三根山藩址」木標と案内板。
三根山陣屋の遺構は皆無ですが、
絵付きの案内があるので想像しやすい。
三根山藩址公園の北側半分が、
三根山陣屋の敷地だったようです。
「三根山藩址之碑」。
三根山藩は長岡藩からの分知で旗本寄合席となり、
幕府の直参になってからの高直し立藩でしたので、
正確には長岡藩の支藩ではありませんが、
元々が長岡藩の分家であった為、
一般的な宗藩、支藩の関係にあったようです。
「旧藩記念庫」。
三根山藩の資料が保管された記念庫。
「新保正与の碑」。
新保正与は幼少の頃から学問を好み、
小澤精庵の困学塾に学び、
江戸に出て大槻盤渓に入門しました。
帰郷後は私塾を開いて子弟教育に尽くし、
明治2年に藩校入徳館の教授となり、
学制公布と共に私塾を寄附。
教育者として多くの人材を育成しています。
「佐藤茂富歌碑」。
佐藤茂富は三根山牧野家の家臣で、
9代藩主牧野忠直が文武を奨励した際に、
佐藤を直心影流長沼四郎左衛門に入門させ、
武技を習得させた後に藩士らを鍛えさせました。
碑は佐藤の歌。
「霊剣のをしへをまもり功をつみ
なをこうをつめ武士の道」
「米百俵」碑。
長岡藩は戊辰戦争に敗れて5万石の減封となり、
藩士達はその日の食にも苦慮していました。
見かねた三根山藩は、百俵の米を長岡藩に送ります。
しかし長岡藩大参事小林虎三郎は、
米を藩士らに分けずに売却。学校設立費用としました。
藩士らが驚いて小林に問いただすと、
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、
教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
と言って学校設立を押し切ったという。
「軍人墓地」。
三根山藩址公園の奥には、
地元出身の戦死者の墓地があります。
見たところ幕末維新期の人物はなかったので割愛。
文久2年に藩として成立した三根山藩でしたが、
その藩体制が整わぬうちに戊辰戦争が勃発。
長岡藩の落城の報を聞いて恭順の意思を固め、
新政府軍と交渉しますが、直後に庄内藩兵が藩領に侵攻。
庄内藩の威嚇により奥羽越列藩同盟軍として出兵し、
野積、寺泊、出雲崎などの戦闘に参加しています。
新潟が新政府軍の手に落ちて同盟軍が退却すると、
三根山藩は新政府軍に嘆願書を提出。
新政府軍からは直ちの出兵と藩主出頭を命じられ、
三根山藩はこれに応じた為に許されています。
その後、83名を庄内に出兵させ、1名が戦死。
戦後、信濃国伊那への転封を命じられますが、
嘆願により許されて差し止めとなり、
藩名が丹後峰山藩と発音が同じであった為、
嶺岡藩に改称させられています。
戦後、賊軍の汚名を着た本家長岡藩の状況に心を痛め、
藩主牧野忠泰は寛大な処置を乞う嘆願書を提出。
自藩も軍資金の提出で困窮しているにも関わらず、
百俵の米を長岡藩に送るなどの支援をしています。
【三根山藩→嶺岡藩】
藩庁:三根山陣屋
藩主家:定成流牧野家
分類:1万石、譜代大名(長岡藩支藩、定府)
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