村松城は江戸期に築城された城で、
上杉家が越後を支配していた時代に、
周辺を支配する館があったとされますが、
正確な事はわかっていません。
村松藩は村上藩初代堀直竒の次男堀直時が、
3万石を分知されて立藩した藩で、
2代藩主堀直吉によって陣屋が完成。
9代藩主堀直央の時代に城主格となり、
陣屋は城に改修されました。
城跡は村松城跡公園となっています。
「蒲原鉄道車両(モハ11)」。
村松城跡公園のシンボル。
蒲原鉄道線の車両が保存されています。
城跡に蒸気機関車の例はよくありますが、
こういうのはあまり見かけられませんね。
村松城は戊辰戦争で焼失し、
後に村松県庁舎が置かれていましたが、
新潟県に吸収合併されると、
敷地は民間に払い下げられてしまいます。
後に村松町が買い戻して公園化され、
土塀が整備されて虎口が再現されました。
公園中央部には石垣も見られますが、
当時のものではない気がします。
三重櫓も建てられていたようですので、
このような石垣があったかもしれません。
「五泉市村松郷土資料館」。
村松藩や堀家の資料や、
村松の歴史資料を展示。
蒲原鉄道の資料等も展示されています。
「村松藩の紋入り手洗鉢」。
村松藩主が上野寛永寺に寄進したもので、
平成11年にここに移設したもの。
村松城跡には遺構が少ないので、
返してもらうのは嬉しいでしょうね。
「水堀跡」。
幅広ですが深さは浅かったようです。
平和な時代の城ですので、
カタチだけの堀を造ったのでしょうか?
村松城は陣屋に近い感じでしたが、
水堀や土塀、櫓などが揃っていますので、
一応は城の部類に入るようです。
藩領は山間部が多く新田開発が伸び悩み、
恒久的な財政赤字となっています。
歴代藩主も打開しようと手を尽くしますが、
財政が好転することはありませんでした。
9代直央に時代には城主格となった為、
城の改修で財政難に拍車をかけますが、
直央は政務から門閥を遠ざけて、
才ある藩士を登用。
次男堀直休に家督を譲って、
自らは財政再建に力を注ぎ、
倹約令及び織物・紙・筆・茶・陶器等、
特産品の生産を奨励しており、
好転とまではいきませんが、
ある程度の成果を出しています。
しかし直休は万延元年7月に死去し、
財政再建を主導した直央も9月に死去。
村改革は中途で頓挫してしまいました。
一族より末期養子堀直賀が跡を継ぎ、
門閥家老堀右衛門三郎が直央の側近を排除。
失脚した直央の側近達は、
時事の影響からか次第に勤皇色を強め、
正義党と称して勤皇論や改革案を上申。
堀右衛門三郎はこれを危険視し、
正義党を弾圧。
4名が切腹、2名が斬首されています。
※村松七士事件。
残った正義党は慈光寺に立て籠もり、
村松藩は奥羽越列藩同盟に加盟。
同盟軍が陣を置いた加茂における軍議では、
村松藩の代表として家老森重内、近藤貢、
清水軍次、田中勘解由が出席しますが、
その席上で会津藩と米沢藩は村松藩を疑い、
城を奪ってしまおうという意見も出ます。
田中は激怒して会議中に刀で喉を突き、
村松藩の潔白を証明しました。
田中は手当されて一命は取り留めますが、
またこの田中の行為に対して、
近藤は勤皇の志を告白して自刃しています。
新政府軍が村松城に迫ると、
堀右衛門三郎は藩主を連れて米沢へ退却。
正義党は堀直弘を新藩主に擁立し、
新政府に降伏しました。
戦後、堀右衛門三郎は斬首。
直賀は隠居を命じられています。
【村松藩】
藩庁:村松城
藩主家:直寄流堀家
分類:3万石、外様大名
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