秋田県秋田市 平田篤胤墓所

当たり前ですが幕末の動乱というのは、
教科書のように黒船がやって来て、
尊皇攘夷運動が起こり、
討幕運動を経て大政奉還となり、
戊辰戦争を経て明治維新が成ったという、
至って単純なものではありません。

色々な要素が合わさって科学反応を起こし、
それが大爆発を起こしたのが維新なわけで、
〇〇が起こったから明治が成ったとか、
そんな単純なものではない。
外威ももちろんその要素ですが、
物価の高騰コレラの流行幕政の失敗
地震等の天災、各藩の思惑などなど・・
そして国学からの皇国史観国粋主義も、
その大切な要素となっています。

その国学とは儒教による当時の学問を否定し、
日本古来文化思想精神を研究し、
再び復興させようという学問で、
万葉集等の古書の追求により発展。
本居宣長による古事記等の研究を経て、
国学はやがて大成の域に達しました。

平田篤胤久保田藩藩士大和田祚胤の四男で、
脱藩前についての動向は不明ですが
不遇な少年時代たったとされます。
20歳で江戸へ出て、
車引き飯炊き三助等で生計を立てながら、
その傍らで諸学を学んでいたという。
後に旗本奉公人となっており、
その縁で備中松山藩平田篤穏の養子となり、
沼津藩藩士石橋常房の娘織瀬を娶りました。

本居宣長の著作を読んで国学に目覚め、
宣長の長男本居春庭に入門。
※篤胤は夢の中で宣長本人より、
 入門を許可されたと言っていたという。
以後は国学の研究に没頭し著書も次々と発表。
私塾真菅乃屋を開いて門人を増やしました。
妻を亡くした事をきっかけに、
死後の世界について興味を持ったようで、
幽界研究暦日易学に傾倒。
真菅乃屋を気吹舎と改めると、
更に門人が増えていますが、
著書天朝無窮暦幕府暦制を批判した為、
江戸からの追放を命じられています。

故郷の久保田藩に復帰した篤胤は、
城下でも国学を教えたようで、
江戸への帰還運動も行っていますが、
これは叶うことはなく天保14年に病没。
正洞院に葬られました。


平田篤胤墓所」。
正洞院は初代藩主佐竹義宣が、
正室である正洞院の菩提を弔う為に、
江戸と秋田に建立した寺院。
※正洞院は烏山城主那須資胤の三女で、
 19歳で3歳年下の義宣と婚姻。
 しかし僅か5年の結婚生活の後、
 謎の自害を遂げています。

秋田の正洞院は維新後に廃寺となり、
篤胤の墓所はその跡地に残っています。
※正室正洞院の墓も現存。
現在の秋田大学の裏手に位置していますが、
学問の神様平田篤胤の墓所があるのは、
学生達にとっても悪い事ではないでしょう。


平田篤胤之奥墓」。
遺言により衣冠束帯の姿で葬られたとされ、
墓石は松坂の方角を向けられています。
※松坂は本居宣長の墓がある。
伝承によると篤胤は人魚の骨を手に入れ、
それを削って飲んだとされますが、
不老不死とはなりませんでした。


平田大人 室石橋氏 後室山崎氏 招魂碣」。
篤胤の墓の後方にある前妻後妻の招魂墓。
前妻石橋織瀬とは恋愛結婚であったようで、
彼女の死から霊界研究を始めたという。
後妻は門人山崎篤利の養女で、
篤胤は彼女にも織瀬と名乗らせたようです。


平田大人略傳」。
こちらも後方に建てられている略伝碑。
篤胤の略伝が刻まれているようですが、
残念ながら全く読めません。

少し離れた場所にある二つの墓碑。

野崎大内蔵徳壽之墓」。
草生して隠れかけた野崎大内蔵の墓。
野崎は寺泊(新潟県)にある聖徳寺の住職で、
京都に赴いて奥羽征討軍に加わり、
桂太郎隊に属して角間川にて戦死。
桂隊は非常に高い死傷率だったようで、
世田谷松陰神社に隊の招魂碑があります。
篤胤との関係は不明。


小谷部甚左衛門吉順之墓
 妻小谷部ヤス之墓
 後妻小谷部フチ之墓
」。
小谷部甚左衛門は篤胤の門人で、
篤胤死後に平田神社創建に尽力した人物。

篤胤の国学は平田派国学として大成し、
水戸学と共に尊攘思想に関わりましたが、
維新後の世はその理想とは違いました。
平田派は神仏分離神道国教化を推進。
間違った解釈が廃仏毀釈運動を生み、
多くの寺院が廃寺する事になっています。
皮肉にも篤胤の眠る正洞院も廃寺となり、
墓所は何もない山麓となっていました。

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