鳥山城を築城した那須家は、
下野那須郡の豪族だったようで、
室町時代には屋形号を持つ大名として、
佐竹家や宇都宮家等と共に、
関東八屋形とされた名門でした。
しかし内紛で上那須家と下那須家に分裂し、
両家が争って那須家は衰退。
後に上那須家が滅亡しています。
鳥山城は下那須家の那須資重が築き、
那須家統一後も本拠として使用され、
近隣の佐竹家に何度も攻められていますが、
その度にこれを退けました。
21代当主那須資晴は豊臣秀吉に反抗。
小田原征伐に参戦した為に改易処分となり、
鳥山城へは織田信雄が2ヶ月ほど入城し、
その後に成田氏長に与えられています。
氏長の死後に跡を継いだ成田泰親は、
関ヶ原の戦い後に加増され鳥山藩を立藩。
しかし成田家は2度の御家騒動で改易され、
代わって松下重綱が2万石で入封した後、
二本松藩5万石に加増転封となっています。
次に堀親良が入封して堀家が2代続き、
板倉家の2代を経て那須家が旧領復帰。
しかし御家騒動によって改易となり、
永井家、稲垣家を経て、
旗本大久保常春が2万石で入封し、
以後は大久保家が定着しました。
「城山入口」。
生憎の雨。こんな日に山城へ登るのは、
よほどのモノ好きかおバカさんですよね。
僕はその両方だと思います。
「寿亀山神社」。
三ノ丸跡に建てられている神社。
初代藩主大久保常春を祀っています。
三ノ丸には御殿が建てられており、
鳥山藩の政治中枢となっていましたが、
明治5年に大雪で崩壊しました。
神社の御神体は常春の木造とその厨子。
老中在籍中に病死した常春を悼み、
8代将軍徳川吉宗が作らせたものです。
「大久保常春公顕彰碑」。
大久保常春は旗本大久保忠高の次男。
忠高は僅か1500石から出世を重ね、
その跡を継いだ常春も加増を重ねて、
最終的に3万石を得ています。
御鷹野御用係として吉宗の供をした他、
吉宗の日光参拝の下見にも出かけており、
気の利く人物だったのではないでしょうか?
山麓の三ノ丸が政治の中枢となり、
山頂部の本丸は後詰めであったのは、
他の山城や平山城と同様。
「七曲口」。
山頂部への大手口。
雨の日にこんな道を進むのは無謀。
案の定、靴は汚れズボンの裾は泥だらけ。
七曲りを登り終えると小さな曲輪があり、
その先は堀切となっています。
「車橋跡趾」。
ここにスライド式の橋が架かっていました。
車輪を転がしてスライドする仕組みで、
有事には敵の侵入を阻む効果があります。
更に進むと石垣が現れる。
「吹貫門跡」。
ここの石垣は状態良く残っていました。
石垣上から敵を攻撃するようです。
「正門跡」。
だんだんと霧が発生してきました。
遺構は草に覆われて確認できませんが、
門があってもおかしくない地形でした。
「本丸(旧二ノ丸)跡」。
戦国時代には御殿が建てられていたようで、
正保城絵図にも建物が描かれています。
霧が幻想的な雰囲気。
本丸跡の先にはさらに古本丸跡が。
堀切によって分けられており、
室町時代以前の本丸が、
古本丸跡として残っています。
「古本丸跡」。
室町時代の明応年間の城域拡張で、
旧二ノ丸が本丸となり、
旧本丸は使われなくなったという。
正保城絵図にも何も描かれていませんが、
隣同士でほぼ同等の曲輪ですので、
破棄された理由がよくわかりません。
大久保家の統治した鳥山藩では、
荒廃が進んで財政難が深刻化しており、
歴代藩主が改革を行いますが効果は無く、
6代大久保忠保が菅谷八郎右衛門を登用し、
二宮尊徳を手本とした改革を行いますが、
これに反対する勢力によって挫折。
財政は更に悪化して好転させる手段もなく、
幕末期には破綻寸前であったという。
それでも戊辰戦争には新政府に藩兵を派遣。
白河戦争等に346名を派遣しています。
【鳥山藩】
藩庁:鳥山城
藩主家:鳥山大久保家
分類:3万石、譜代大名
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