弘前藩津軽家の菩提寺である長勝寺。
前回は雪が積もっていた為、
※記事はこちら。
雪の無い季節に改めて訪問しました。
「三門」。
2代藩主津軽信枚による建立。
前回の訪問時は雪化粧でした。
4つの国指定重要文化財のひとつ。
「本堂」。
向拝のない本堂は庫裡を通って入れます。
ここで霊廟の拝観をお願いしますが、
今は一般公開していないとの事。
前はしていたが住職が代わられてから、
方針が変わって公開していないのだという。
仕方なく塀の外より拝観することに。
「環月台」。
初代津軽為信の正室戊姫(阿保良)の墓。
大浦為則の娘で為信を婿養子に迎え、
戦の際には将兵に手拭や赤飯を配ったり、
自ら火薬を調合して前線に送るなど、
夫の戦を陰で支えたようです。
為信が京都で死去した後は剃髪し、
仙桃院を号して弘前城北ノ丸に居住。
2代信枚の妻満天姫と仲が良かったという。
「碧巖台」。
2代藩主津軽信枚の霊屋。
為信の三男で母は側室栄源院。
為信には長男の津軽信建、
次男の津軽信堅がいましたが、
相次いで早逝した為に嫡子となりました。
しかし兄信建の遺児熊千代を擁する派閥が、
幕閣に訴えて熊千代の藩主相続を主張。
しかし信枚は幕府への根回しを行い、
藩主に就任すると派閥を粛正しています。
幕府の政治僧南光坊天海に弟子入りし、
徳川家康の養女満天姫を妻に迎え、
幕府との繋がりを深めました。
また地名を鷹岡から弘前に改めており、
城下の整備、新田開発、交易ルート整備等、
藩の基礎を築いた人物とされています。
江戸藩邸で死去した為この廟は分霊墓。
「明鏡台」。
信牧の正室満天姫の墓。
家康の異父弟松平康元の娘で、
後に家康の幼女となり、
福島正則の養嗣子福島正之に嫁ぎますが、
正之が乱行により幽閉されて死去すると、
実家に戻った後に信枚と再婚。
信枚の正室は石田三成の三女辰姫でしたが、
辰姫を側室として満天姫を正室にしました。
とはいえ後に辰姫は男子を生み、
翌年に満天姫も男子を生んでいますが、
世継ぎは辰姫の子(3代津軽信義)となり、
満天姫の子津軽信英は旗本となって、
後の石黒藩の祖となっています。
信枚の死後は葉縦院と号して余生を過ごし、
死後は長勝寺に埋葬。
「白雲台(3代藩主津軽主信)」、
「凌雲台(6代藩主津軽信著)」は、
塀の外から覗くには遠く、
廟所は写真に納められませんでした。
「津軽家歴代墓所」。
3代藩主信義から報恩寺が菩提寺となり、
墓所も法恩寺に定められていましたが、
昭和29年に長勝寺に改葬されています。
入れないので確認できませんが、
調べた限りでは、
5代津軽信寿、7代津軽信寧、
8代津軽信明、9代津軽寧親、
10代津軽信順、11代津軽順承、
5代信寿の嫡男津軽信興、
11代順承の養嫡子津軽承祐の墓が、
集められているようです。
ちなみに改葬に伴う発掘調査で、
承祐がミイラ化している事がわかり、
当時の世間を驚かせました。
学術調査の後に本堂に安置されましたが、
腐敗が進んだ為に火葬されたようで、
現在は歴代の墓と共に埋葬されています。
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