永慶寺は郡山藩柳沢家の藩祖柳沢吉保が、
甲府に建立した柳沢家の菩提寺で、
次代の柳沢吉里が郡山藩に移封されると、
同じく郡山に移転しました。
「山門」。
山門は郡山城の南門を移築したもので、
市内唯一の郡山城の遺構建築物。
豊臣秀長時代に建てられたものという。
「本堂(大雄宝殿)」。
黄檗宗の異国情緒を漂わせる本堂。
新しいようなので再建されたものでしょう。
本尊は釈迦三尊像で、
柳沢吉保夫妻坐像も安置されているという。
「柳沢家墓所」。
寺の裏手のある墓地の中央にあります。
門は2つありますが中は繋がっており、
墓所はL字になっていました。
2つの門正面の墓はどちらもご婦人。
「真華院殿慈芳妙淑大姉」。
5代藩主柳沢保興の正室淑姫の墓。
薩摩藩8代島津重豪の娘で、
重豪は14男12女を儲けており、
多くの諸藩に養子や姫を出しています。
11代将軍徳川家斉の御台所も重豪の娘で、
淑姫は重豪の十一女でした。
保興との間に6代柳沢保申を設けており、
夫婦仲も良好であったようです。
「正三位伯爵静山柳沢公夫人遺髪碑」。
6代藩主柳沢保申の正室明子の遺髪碑。
一条忠香の娘で明治天皇の皇后美子の実姉。
明子は明治35年に逝去し、
品川の東海寺に葬られましたが、
夫の保申の許に遺髪が納められています。
「正三位伯爵故郡山城主柳沢公墓」。
6代藩主柳沢保申の墓。
5代柳沢保興の三男として生まれ、
父保興が死去したため家督を相続します。
東禅寺の英国公使館の警備を担当し、
浪士からの襲撃を防いだ為に、
英国ビクトリア女王に称賛された他、
天誅組の鎮圧にも貢献しました。
新政府が樹立するとこれに恭順し、
主に東北方面の輜重を担当。
版籍奉還で藩知事となり、
廃藩置県で免官となって東京に移住。
久能山東照宮、日光東照宮や龍田大社など、
大神社の宮司を務めており、
晩年は郡山に戻って地域の発展に尽くし、
金魚の研究にも尽力しました。
「従二位勲一等伯爵柳沢保恵墓」。
柳沢宗家8代当主柳沢保恵の墓。
黒川藩7代柳沢光昭の次男として生まれ、
明治19年に宗家の養子となり、
養父保申の死去に伴い家督を相続。
一族の中でも優秀だったようで、
学習院大学卒業後に欧州留学し、
帰国後に柳沢統計研究所を設立しました。
貴族院議員では予算委員長を務め、
東京市会議員では議長を務めた他、
第一生命の初代社長にもなっています。
「天承院殿保岳仁養大居士
馨尚院殿襌室明鏡大姉」。
柳沢宗家9代柳沢保承と妻尚子の墓。
6代藩主保申の晩年に生まれた長男で、
8代当主保恵の養子となり、
保恵の死去に伴い家督を相続しています。
柳沢統計研究所総裁、
日本錫工業取締役会長、
太平洋海上火災保険取締役、
大礼使典儀官、商工省委員、
軍需省委員などを歴任しました。
尚子は佐賀藩11代鍋島直大の娘。
■関連記事■
・奈良県大和郡山市 郡山城跡
郡山藩柳沢宗家の居城跡。
・新潟県新発田市 三日市陣屋跡
三日月藩柳沢家の陣屋跡。
・新潟県胎内市 黒川陣屋跡
黒川藩柳沢家の陣屋跡。