甲府藩柳沢家が郡山へ移封された際、
その支藩であった2つの新田藩も、
黒川、三日市へ移封しました。
黒川藩初代藩主柳沢経隆は、支配体制を固めるため、
三十四条にも及ぶ法度を制定していますが、翌年に死去。
領地は新田開発の余地が無かったため、
恒久的な資金難であったとされ、
藩の運営には宗家郡山藩の助けが必要であったようです。
「胎内市立黒川小学校」。
黒川陣屋はこの黒川小学校あたりにありましたが、
遺構は全くありません。
黒川藩柳沢家は江戸定府大名であった為、
黒川陣屋は当初簡素なものだったようですが、
文久の改革で定府大名にも国元への帰還が許され、
新たに新御殿(新御屋敷)が築かれています。
幕末の藩主は7代柳沢光昭。
国入りを果たした光昭は、藩政改革に意欲を燃やしますが、
時代は戊辰戦争へと移り、身の振り方の選択を迫られ、
周辺の諸藩と共に奥羽越列藩同盟に加盟しています。
しかし、宗家である郡山藩が新政府に恭順し、
また近隣の新発田藩が寝返った為にこれに呼応して、
新政府軍に降伏しました。
【黒川藩】
藩庁:黒川陣屋
藩主家:経隆流柳沢家
分類:1万石、譜代大名(郡山藩支藩、定府)
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