渡辺崋山は田原藩藩士渡辺定通の長男で、
8歳で藩主嫡男亀吉や、
三男元吉の伽役となっており、
藩主三宅康友に目を掛けられていました。
しかし渡辺家は養子の父が相続した為、
扶持を減らされ生活は困窮。
得意の絵を売って生計を支えていたという。
絵は大叔父平山文鏡の手ほどきを受け、
次に白川芝山、金子金陵に入門し、
金陵の師谷文晁にも教えを受けました。
画家として著名になりながらも藩に出仕し、
家督相続後は取次役などを務めています。
10代藩主三宅康明が死去すると、
藩重役達は財政難を克服する為、
大藩の姫路藩酒井家から養子を貰い、
持参金を得ようと画策しますが、
崋山は康明の弟三宅友信を擁立し、
三宅家の血統を重視するべきと主張。
しかしこれは覆らずに、
姫路藩より三宅康直が入っています。
その際に崋山は藩重臣らや姫路藩と交渉。
次代は友信の男子と康直の娘を結婚させ、
次の藩主とすることを誓約させました。
また友信に隠居格の邸宅を与えて優遇し、
崋山は友信の側用人となっています。
藩主となった康直は崋山を登用し、
藩政改革に従事させており、
格高制の導入、倹約令、農政改革を行い、
災害に備えて報民倉を設置。
これが天保の大飢饉で効果を発揮し、
領内の餓死者を皆無としました。
崋山は施政の傍らで書画の創作を続け、
また著名な学者らが集まる尚歯会に参加。
飢饉対策の意見交換をしますが、
海防問題にまで議論を深める様になり、
幕府の外国政策に危機感を持ちます。
崋山は慎機論で幕府を非難しますが、
藩への迷惑を鑑みて発表を中止。
草稿のまま自宅に放置していましたが、
蛮社の獄が発生して家宅捜索が行われ、
その草稿が発見されて逮捕されました。
崋山の投獄に絵の門人や友人達が奔走し、
救援、減刑活動に奔走。
その甲斐あって在所蟄居の判決が下り、
田原の池ノ原屋敷で蟄居生活を送ります。
しかし禄を奪われて収入がなくなった為、
極貧生活を余儀なくされてしまい、
これを憂慮した門人福田半香は、
江戸で崋山の書画会を開いてこれを販売。
代金を崋山の生活費に充てていますが、
これが幕府に問題視されたと聞いた為、
藩への迷惑を恐れて納屋で切腹します。
[不忠不孝渡邉登]と絶筆の大書を遺し、
[餓死るとも二君に仕ふべからず]と遺書。
天保12年(1841)、49歳でした。
「崋山神社」。
崋山は明治になるとその功績が評価され、
人々に顕彰されるようになりましたが、
没後百年記念に神社創建の運動が起こり、
有志達によって崋山神社創立奉賛会が創設。
建設の為の募金が募られ、
明治21年に井伊谷宮の仮殿が移設されて、
田原城の出丸跡に創建されました。
「社殿」。
白を基調とした社殿。
創建時の社殿は伊勢湾台風により崩壊。
一時的に巴江神社境内に仮遷座した後、
昭和42年に現在の社殿が再建されてます。
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