田原城は戸田宗光により室町後期に築城。
三河湾支配の拠点となった城でしたが、
戸田康光の代に今川義元に攻められ落城し、
康光は嫡男戸田尭光と共に討死しています。
田原城は桶狭間の戦い後に、
松平元康(徳川家康)によって攻略され、
以後は本多広孝、伊木忠次等が城主となり、
徳川幕府の設立後に戸田尊次に与えられて、
田原藩の藩庁となりました。
※田原戸田家。後の宇都宮藩戸田家。
戸田家は3代続いて富岡藩に移封となり、
代わって三宅康勝が入封。
廃藩置県まで三宅家が支配しています。
「総門跡」。
武家屋敷を含む城域の総門跡。
総門東側の石垣が残っています。
「田原市報民倉」。
総門跡の石垣に連結するようにあるのは、
報民倉を模して建てられた資材倉庫。
飢饉に備えて穀物を備蓄した義倉で、
渡辺崋山の指導で建てられました。
実際に天保の大飢饉での救済で放出され、
領内の餓死者、流亡者を一人も出さず、
その翌年に幕府に表彰されています。
この田原市報民倉には災害用の資機材が、
保存されているという。
総門跡を越えて大手通りを進むと、
報民倉が実際建っていた場所があります。
「報民倉跡」。
現在は民家となって遺構はありませんが、
ボロボロの説明板が設置されていました。
「桜門」。
田原城の大手門だったもので、
平成4年に再建されたもの。
残念ながら門前の銀杏の木が邪魔で、
全体の姿が写せませんでした。
「袖池」。
大手前の水堀。
ここの最下層の石垣が、
最も古い時代に組まれたものという。
桜門を越えると坂になっており、
現在は一直線で本丸に行けますが、
往時は枡形となっていたようです。
右手側は三ノ丸跡となっており、
曲輪内に護国神社が鎮座しています。
「護國神社」。
由緒はわかりませんが、
明治以降の戦没者が祀られています。
境内に渡辺崋山や村上範致の碑があるので、
彼らも合祀されているのでしょう。
「渡邊崋山之碑」。
渡辺崋山没後50回忌に建てられた顕彰碑。
題字は三条実美、文章は川田甕江、
碑文は長三州という。
崋山は書画に優れた芸術家であり、
報民倉を設置するなどした施政家であり、
幕政を非難した思想家でもありました。
「村上清谷之碑」。
田原藩家老で砲術家の村上範致の顕彰碑。
村上範致は田原藩士村上照員の長男で、
崋山に推挙されて三宅友信の近習となり、
後に江戸に出て砲術を学び、
西洋流砲術家の高島秋帆に入門。
田原藩に高島流砲術を導入しています。
藩軍制の西洋化に貢献しており、
家老に昇進して崋山亡き後の藩政を牽引。
維新後は権大参事に就任していますが、
病に倒れて明治5年に死去しました。
「田原市博物館(二ノ丸跡)」。
二ノ丸跡には博物館が建てられており、
復元した櫓は博物館の一部となっています。
この博物館を建設する為に、
石垣を崩した為に批判もあったようですし、
本来の城内建築物は白壁ではなく、
下見板張りの城壁だったようで、
再現性は極めて低いようですが、
なかなかセンス良く城内建築物っぽい。
渡辺崋山の書画や田原藩の資料等を展示。
空堀を越えて本丸跡へ。
桜門から60m程度の一直線なので、
防御的には心もとない気がしました。
「巴江神社(本丸跡)」。
本丸には本丸御殿が建てられていたようで、
政庁及び藩主居館となっていたようです。
9代藩主三宅康和が二ノ丸に社殿を建立し、
遠祖児島高徳を祀っていましたが、
廃城後に本丸跡に移されたようです。
祭神は児島高徳の他、藩祖三宅康貞、
伊弉册尊、速玉男命、事解男命。
田原藩は渡辺崋山や村上範致等、
優秀な家臣らに運営されており、
農政改革、軍制改革が行われていますが、
小藩で幕政参加や普請での出費もあり、
財政的に常に困窮していたようです。
鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順し、
京都の警備や輜重の任にあたったようで、
戊辰戦争での戦死者はいませんでした。
【田原藩】
藩庁:田原城
藩主家:三宅家
分類:1万2000石、譜代大名
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