挙母城は挙母藩の藩庁。
挙母は元々は「衣」と表記していた様ですが、
本多家の入封によって「挙母」と改められました。
かつての藩庁の「桜城」は城ではなく陣屋形式でしたが、
安中藩より転封した内藤政苗は、桜城の城郭への改修を計画。
堀をめぐらし石垣を組んで、本格城郭への改修を進めますが、
矢作川の大洪水で中断し、その後も度重なる水害に遭った為、
桜城の改修を断念して、童子山に新たに築城を計画。
そうして完成したのが挙母城です。
挙母城は城より、三河、尾張、美濃、信濃、伊賀、
伊勢、近江の七国が望めた為、七州城とも呼ばれました。
「豊田市美術館」。
挙母城の跡地には、美術館が建てられています。
さすが世界のTOYOTAを擁する豊田市の美術館。
綺麗で立派な建物でした。
「隅櫓」。
昭和52年に再建された隅櫓。
現存していた石垣の上に建てられたもの。
「挙母城址之碑」。
隅櫓の脇に建てられた跡碑。
「管江田中先生之碑」。
挙母藩権大参事田中正幅の顕彰碑。
幕末期の動向は不明ですが、
権大参事に任命されるくらいなので、
家老職であったと思われます。
西加茂郡長を24年務め、
地元の政治経済の基礎を確立させた人物。
もうひとつ石碑があったのですが、
劣化と逆光によって全く何の碑かわからず・・。
「又日亭」。
尾張藩家老であった渡辺規綱の隠居庵。
挙母城の遺構ではありません。
明治期に豊田市の竜寿院に移築されていたもので、
老築化して取り壊されるのを惜しんで、
市が譲り受けて移築したものです。
挙母藩4代藩主内藤政成、
5代藩主内藤政優は彦根藩からの養子で、
2人とも井伊直弼の兄にあたります。
6代藩主内藤政文も彦根藩からの養子で、
井伊直弼の甥にあたり、
彦根藩との結びつきが強かったようです。
政文は領内で馬産を奨励して産業振興を図り、
水害に悩まされていた領内の治水事業に努めました。
また洋式軍制や西洋医学の導入も積極的に行い、
藩士らに文武の奨励を図っています。
また馬術に優れた人物だったようで、
馬場稽古所を設置して自ら藩士を訓練しました。
しかし、安政5年に政文は急死してしまい、
僅か4歳で政文の長男内藤文成が7代藩主となります。
藩政は家老らによる合議制が敷かれ、
文成は江戸で元服を待ちました。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、
藩主不在のまま新政府への恭順が決定され、
文成は江戸から帰国して、
東海道軍人馬兵食賄方を拝命しています。
【挙母藩】
藩庁:挙母城
藩主家:三河内藤家
分類:2万石、譜代大名
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