左から、
八男松平定敬、七男松平容保、
五男徳川茂栄、次男徳川慶勝。
高須藩10代松平義建の子供らで、
幕末期に重要な藩の藩主であった4人を、
高須四兄弟と呼ばれました。
松平義建の子供は10人いるのですが、
他の兄弟は早くに死去しており、
この4人は波乱の人生を送りました。
4人目は四男(正式には八男)の松平定敬。
兄容保が京都守護職に任命された関係から、
元治元年に京都所司代に任命され、
兄と共に京都の治安を守る事になります。
桑名藩3代藩主松平定猷の死去に伴い、
嫡男万之助(定教)が幼少であり、
しかも妾の子であった事から、
正室の娘初姫の婿養子に定敬が迎えられ、
桑名藩4代藩主となりました。
所司代着任早々に禁門の変が発生。
桑名藩は会津藩と共に長州藩と戦います。
京都から長州藩を追い出した桑名、会津は、
一橋慶喜と共に「一会桑政権」を成立し、
朝廷と協調して京都の政権を主導。
定敬と容保、兄弟で連携しますか、
残念なのは慶喜と組んでしまった事か・・。
長州征伐では松平兄弟の意向に関わらず、
慶喜が煮えきらぬ態度で敗北。
その後の一連の奇行に振り回され、
一会桑政権は崩壊します。
鳥羽伏見の戦いに敗れると、
大坂城まで撤退して体制を整え、
新政府軍を迎え撃とうとしますが、
慶喜が敵前逃亡を図って大坂城を脱出。
慶喜の命で同行を余儀なくされます。
騒然としたのは国許の桑名藩。
藩主が敵前逃亡!?
桑名藩領は京都から目と鼻の先。
どないすんねんと紆余曲折の末、
定教を擁立して恭順してしまいます。
一方で江戸の定敬は容保と共に抗戦を主張。
慶喜は責任を定敬と容保らになすりつけて、
2人を登城禁止にしてしまいます。
仕方なく飛地の柏崎に入って徹底抗戦し、
桑名軍は旧幕軍最強としてその名を轟かせ、
名将立見鑑三郎らが善戦しました。
しかし長岡藩の敗北や、
新発田藩の裏切り等で、
北越戦線は瓦解して会津に敗走。
会津降伏後も定敬は箱館に渡って戦います。
徹底抗戦すると困るのは国許の桑名藩。
家老酒井孫八郎は藩の存続の為に、
桑名から箱館に渡って定敬を説得。
箱館戦争で新政府軍が五稜郭に迫ると、
悠長に説得していられないと、
定敬を強引に連れ出して船に乗せました。
しかし頑固な定敬は観念せず、
上海への国外逃亡を企てます。
・・・が、路銀が尽きて万事休す。
仕方なく新政府に遂に降伏しました。
後に許され渡米したりしていますが、
明治10年の西南戦争では、
旧桑名藩士を率いて自ら遠征しています。
兄弟の中一番気骨があるように感じるのは、
僕だけではないでしょう。
兄弟の中で最後に恭順、降伏したのは末弟。
一番の波乱の人生を送っているようですね。
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桑名藩久松松平家の居城跡。
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高須藩の藩庁。
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定敬は京都所司代に就。