半学舎は浄圓寺境内に開かれた私塾で、
明治10年に官許を得て開設されました。
「浄圓寺」。
四日市市大鐘町にある真宗大谷派の寺院。
この寺に生まれた大賀賢励は、
幼少期より儒学や仏教を学んだようで、
学者としての才があったという。
やがて豊後国日田の広瀬淡窓に師事し、
多くの学識を得て帰郷。
住職を務める傍らで子弟の育成に努め、
後に江戸に出て学問を深めました。
その後に再び帰郷して住職に復帰しますが、
3年で弟に再び住職を譲り、
忍藩の飛地藩校興譲館の教頭に就任。
後に私塾半学舎を設立させており、
ここの境内に校舎が建てられます。
「半学舎跡」碑。
境内にある半学舎の跡碑。
大賀は弘化3年頃から私塾を開き、
本堂で漢学を子弟に教育していましたが、
大賀の学識、思想、人徳を慕って、
門下生は日に日に増加しました。
この為に本堂では手狭となり学舎を増築。
広瀬淡窓の私塾咸宜園にならい、
境内を綴英園と命名し、
増築した学舎を半学舎と名付け、
質実剛健な英才教育を目指します。
半学舎は西楼、東楼、南楼で構成され、
南楼は大賀の住居に使用され、
東楼は寄宿舎として塾生が住み込み、
西楼にて学習が行われたという。
大賀は明治39年に死去しており、
主と門人が去った後の半学舎の建物は、
売られて各地に移築されたようで、
平成2年までは現存していたようです。
■関連記事■
・大分県日田市 咸宜園跡
広瀬淡窓の私塾咸宜園の跡地。