瀬高宿は薩摩街道の宿場町。
九州の南北を繋ぐ交通の要衝で、
柳河藩の物資集積の中枢となった他、
鋳物、製瓦、和紙、製蝋等の職人や、
商人達が集まって町屋が形成され、
商工業が発展がしていたようです。
瀬高町上庄/下庄周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが瀬高宿跡。
瀬高宿は矢部川で上庄と下庄に分かれ、
その両方に宿場があったという。
北側より散策。
瀬高宿に関してはその入口は不明。
なんとなくの位置から散策を始めます。
写真左は山下第二酒造の跡。
瀬高は酒造の町として知られており、
酒蔵跡が数件残っていますが、
現在は後記する1軒しか残っていません。
「御茶屋前交差点」。
南下すると御茶屋前と名付けられた交差点。
名のとおり柳河藩の御茶屋があった場所。
正確な場所がよくわかりませんが、
この辺りにあったようです。
「追分」。
薩摩街道はここで東へ。
西は柳河藩の城下に至る柳川通。
右側の空地に道標が置かれていました。
道は微かに湾曲しながら伸びます。
古い商家も少し残っていました。
「上庄八坂神社」。
柳河に再封された立花宗茂は、
自軍と徳川家康の大軍が激突し、
激戦の最中に祇園の神が両軍の前に現れ、
戦いを終わらせる不思議な夢をみます。
これを霊夢と考えた宗茂は、
この上庄八坂神社が荒廃していると知り、
本殿を再建して鄭重な祭礼を行いました。
それからは大人形の神事と、
提灯ぞろえが行われるようになり、
現在も受け継がれているようです。
「菊美人酒造」。
享保20年(1735)の操業の酒蔵。
屋号を薩摩屋と称していたようで、
元々は薩摩藩と柳河藩の交易に関わり、
財を成した商家であったという。
幕末の頃に酒造業を始めたようで、
清酒菊美人を製造しています。
北原白秋の姉加代が嫁いだようで、
白秋も菊美人を愛したという。
※菊美人の酒名は白秋の命名とも。
現在瀬高町で唯一残っている酒蔵とのこと。
「瀬高橋」。
上庄と下庄を繋く矢部川に架かる橋。
江戸初期には橋は無かったようで、
舟渡しで渡河していたとのこと。
その後に粗末な橋が架けられて、
渡り賃が取られていた為、
賃取橋と呼ばれたようですが、
粗末で渡るとガタガタ音がしたので、
ガタガタ橋とも呼ばれたという。
大名行列や幕府の役人が通行する際は、
これとは別に舟橋が架けられました。
矢部川を渡ると下庄。
こちらも古い街並みが残っているようですが、
時間の関係で散策してません。
■薩摩街道の宿場町
■関連記事■
・福岡県小郡市 松崎宿跡
薩摩街道の最初の宿場町。
・福岡県柳川市 柳川城跡
西へ行けば柳川城下町。