福岡県小郡市 松崎宿跡

松崎宿薩摩街道の宿場町で、
秋月街道の終点でもありました。

久留米藩2代有馬忠頼の養子有馬豊祐は、
出石藩5代小出吉重の次男。
忠頼に実子が生まれた為に廃嫡され、
1万石を分与され松崎藩を立藩。
城下町を整備して街道を引き入れて、
松崎城下を宿場としました。
その後に豊祐は窪田藩土方家御家騒動で、
親族ながら仲裁に尽力しなかった咎で改易。
松崎藩は僅か1代で消滅しています。
しかし松崎宿はそのまま宿場町として残り、
交通の要所として発展。
廃藩後は一時幕府領となりましたが、
後に久留米藩に返還されており、
久留米藩の支配で明治まで栄えました。


小郡市松崎周辺。
緑の線が薩摩街道で青い線が秋月街道。
青でぼかした辺りが松崎宿跡。

生憎の雨の中。北側より散策。

薩摩街道/秋月街道追分」。
国道500号線東側が秋月街道で、
北へ伸びる道が薩摩街道。
2つの街道はこの地点で合流し、
すぐ先の松崎宿に入ります。


北構口跡」。
状態良く現存する北構口石垣
後記しますが南構口の石垣も現存しており、
両構口の石垣が全て残されているのは、
非常に珍しい例とされています。


北枡形」。
構口からすぐ先は桝形になっています。
右側の角は松崎宿歴史資料館


松崎宿跡」。
桝形を越えると道は南北に伸びる道に合流。
この通りが松崎宿のメイン通りで、
本陣脇本陣旅籠等が軒を連ねました。


旧松崎旅籠油屋」。
現存する旅籠油屋の建物。
昭和初期まで旅籠として使用され、
その後は芝居小屋食堂等を経て、
整備保存されて現在に至ります。
旅籠としては非常に大型の建物で、
本陣、脇本陣に次ぐ格式だったとのこと。
建物は幕末期の建築のようで、
北側の建物は調査で嘉永2年築と判明。
乃木希典が明治9年に昼食を取っている他、
伝承ながら西郷隆盛が宿泊したとされます。


御茶屋跡」。
久留米藩営の御茶屋跡
立派な門と塀がありますが、
これは明治以降のもののようです。


松崎宿跡の中央にある十字路。
現在は十字路ですが往時はT字路で、
西側の道は倉稲魂神社(松崎稲荷)の参道。
かつての松崎陣屋の大手口でもありました。

街道から逸れて西側の道へ。

先程の御茶屋の裏口門


松崎宿場本陣跡」。
御茶屋跡の敷地へ行く道のようで、
個人宅の入口の模様。
諸事情により設置場所が微妙なのは、
結構よくある話ですね。

更に西側へ。

桜馬場入口」。
松崎藩の藩庁松崎陣屋への大手筋で、
藩主有馬豊祐は通りの両側に土堤を築き、
を植えて桜馬場と名付けたとされます。
廃藩後も桜は残ったようで、
江戸時代から明治、大正の頃まで、
有名な桜の名所となっていました。
現在も桜が植えられていますが、
これは後に植樹されたものでしょう。
その先の三井高等学校の敷地が陣屋跡で、
廃藩後はが植えられたとのこと。

街道に戻って更に南へ。

南枡形」。
南側にも桝形が設置されています。
一から城下町及び宿場町を整備された為、
完璧な仕上がりとなったのでしょう。


桝形の先は南へ向かう道となり、
この辺りは結構古い建物が残っています。
左は旅籠鶴小屋の建物で今にも潰れそう。
どうにか残して欲しいですね。


南構口跡」。
こちらも状態良く現存する南構口の石垣。
写真は構口を出て振り返って撮影したもの。

河井継之助は安政5年10月24日に、
松崎宿に宿泊していますが、
どこに泊ったかは定かではありません。
吉田松陰も嘉永3年12月26日に、
九州遊学で松崎宿を通っていますが、
こちらは素通りしたようです。

■薩摩街道の宿場町
■秋月街道の宿場町

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