谷中霊園にある館林藩秋元家の墓所。
秋元家墓所は群馬県前橋市光厳寺にもあり、
初代から11代の当主の墓がありますが、
こちらは11代秋元礼朝以降の累代墓です。
「秋元氏之墓」。
秋元子爵家の累代墓。
礼朝の墓は光厳寺にも建てられていますが、
こちらにも礼朝は入っているようです。
礼朝は掛川藩5代太田資始の五男に生まれ、
10代秋元志朝の養子となりました。
元治元年に志朝が強制隠居処分を受けた為、
これに伴って家督を相続。
戊辰戦争では軍資金2万両を供出し、
藩兵1000余名を出陣させており、
戦後に1万石を加増されています。
明治4年の廃藩後に隠居し、
同16年に死去しました。
家督は養子の秋元興朝が相続。
※高徳藩初代戸田忠至の次男。
明治16年に註仏公使館に勤務しますが、
辞職して欧米各国を留学しています。
帰国後は外務官僚となりますが、
健康面に不安があった為に辞職。
旧領館林の城沼開墾事業に尽力し、
大正6年に死去しました。
家督は娘光子の婿秋元春朝が相続。
春朝は徳山子爵家の毛利元功の三男で、
学習院高等科卒業後にイギリスに留学し、
バーミンガム大学の商科を卒業。
拓殖局総裁秘書官兼逓信大臣秘書官、
鉄道大臣秘書官、英皇太子接伴準備委員、
鉄道会議議員、海事審議会委員等を務め、
大正14年に貴族院子爵議員となり、
昭和22年の貴族院廃止まで在任し、
その翌年に死去しています。
上記の3人は入っているようですが、
その他の被葬者はわかりません。
「清徳之鑑」。
秋元礼朝の墓前碑。
次代当主興朝の題額によるもので、
謹撰は元館林藩士岡谷繁實で、
書は元幕臣で書家の市河三兼(万庵)。
彫刻は井亀泉こと石匠酒井八右衛門です。
「獻龕鐙華表記」。
秋元興朝の墓前碑。
こちらも次代当主春朝の篆額。
謹撰も元館林藩士藍谷良翰で、
同じく書も元藩士近藤真一とのこと。
玉垣の外に宝篋印塔がありますが、
泉通院殿源高日林淑霊と刻まれており、
当主の奥方のもののようですが、
誰の墓かはわかりません。
墓所は谷中霊園乙14号1側。
■関連記事■
・群馬県前橋市 光厳寺/館林藩秋元家墓所
館林藩秋元家の歴代墓所。
・群馬県館林市 館林城跡
館林藩秋元家の居城跡。