福済寺は長崎にある黄檗宗の寺院。
江戸時代初期に長崎に在留した華僑らは、
その死後に悟真寺に葬られていましたが、
後に唐人墓地が整備されて、
そこに葬られるようになりました。
その後に寺請制度が成立されると、
華僑達も寺請証文が必要となった為、
自分達の檀那寺創建に至ります。
福済寺はそのうちのひとつで、
福建省泉州及び漳州出身の檀家寺。
寛永5年(1628)に唐僧覺悔が庵を結び、
天后聖母(媽祖)を祀ったものを前身とし、
慶安2年(1649)年に正式に創建しています。
「大雄宝殿(本堂)」。
現在の大雄宝殿は本堂兼庫裡として、
昭和27年に再建されたもの。
福済寺は長崎で一番大きな唐寺で、
旧国宝の大雄宝殿や大観門等の伽羅があり、
多くの絵画や文化財があったようですが、
昭和20年に原爆で尽く焼失しました。
元治元年2月に勝海舟が来崎した際は、
坂本龍馬と共に福済寺に宿泊。
約1ヶ月余りの滞在しています。
当時軍艦奉行並だった勝は、
外国艦隊の下関攻撃を阻止する為に、
蘭国総領事ポルスブルックと交渉。
しかし勝の努力も虚しく、
下関への攻撃は行われました。
「万国霊廟長崎観音」。
亀の形をした霊廟の上に、
慈母観音が聳える独特な建物で、
原爆被災者と戦没者の慰霊と、
平和祈念の為に昭和54年に建立。
観音様の高さは34mあるという。
裏手の山にある唐人達の墓所へ。
「分紫山開基覺悔禪師寶塔(右)」、
「重建分紫開山本師上蘊下謙和尚之塔(中)」、
「臨済第三十四世本師上慈下岳○禴尚墖(左)」。
福済寺の唐僧墓。
岩盤に掘られたはめ込み式の墓で、
開基覺悔、開山蘊謙、二世慈岳のもの。
「唐通事穎川(陳)家墓地」。
潁川家は陳冲一を祖とする名門通事家で、
福済寺第一の大檀越だったようです。
「唐人合葬墓地」。
数百の墓が半円を描いて並ぶ唐人墓。
異国の地で死んだ華僑達のもの。
原爆によって破壊された福済寺で、
これら唐人達の墓が唯一、
唐寺であった面影を残しています。
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