長崎県長崎市 聖福寺

聖福寺は長崎市玉園町にある黄檗宗寺院。
興福寺福済寺崇福寺三福寺に、
聖福寺を合わせて四福寺とされましたが、
長崎奉行に後援された目付寺でもありました。


山門」。
現在聖福寺は修復保存工事中
山門養生幕に覆われています。
元禄16年(1703)建立の山門は、
本瓦葺切妻造段違とのこと。

修復保存工事前の山門(現地説明板より)。
国指定重要文化財

養生された仮参道より境内へ。

天王殿(中門)」。
石段の先に聳える天王殿
宝永2年(1705)の建立ですが、
状態が良かったのかそのままです。
天王殿の名称は中華伝来のもので、
中央に弥勒菩薩(布袋)が鎮座し、
裏手には韋駄天が置かれています。
国指定重要文化財。


弥勒菩薩(布袋)」。
天王殿中央にある弥勒菩薩像
七福神布袋は弥勒菩薩の化身とされ、
大きなお腹は広い度量円満な人格
所持品の大袋は堪忍袋とされています。
普段はあまり仏像は撮影しませんが、
良い表情に思わず写してしまいました。


大雄宝殿(本堂)」。
本堂にあたる大雄宝殿も修復保存工事中。
元禄10年(1697)に建立されたもの。
本尊は釈迦如来坐像迦葉尊者阿難尊者が、
脇仏として控えているとのこと。

修復保存工事前の大雄宝殿(現地説明板より)。
早く完成したものを拝みたいものです。
国指定重要文化財。


石門」。
金比羅山にあった神宮寺が、
明治維新後に金比羅神社となり、
仏像仏具の一切が破棄されいますが、
この門はその神宮寺にあった石門で、
唐僧木庵の[華蔵界]の文字が刻まれ、
聖福寺の開基である鉄心道胖は、
その木庵の弟子だった縁から、
明治19年に移築されたとのこと。
神宮寺の貴重な遺構でもあります。


龍馬像と方丈」。
石門の隣に小さな龍馬像があり、
その先に方丈の玄関があります。
慶応3年4月23日。
海援隊の操舵するいろは丸(大洲藩籍)と、
紀州藩の軍艦明光丸が衝突し、
いろは丸が沈没する事故が発生。
坂本龍馬と紀州藩は鞆ノ浦で交渉を行い、
賠償について話し合われましたが、
交渉は決裂するに至り長崎で再度交渉。
その舞台となったのがこの方丈とされます。
龍馬ら海援隊は銃火器3万5630両と、
金塊4万7896両198文を積んでいたと主張し、
その賠償を紀州藩に請求しますが、
紀州藩は長崎奉行の公裁を仰ぐべきと反論。
海援隊との交渉を避けて土佐藩と交渉し、
最終的に8万余両の支払いが決定され、
後に7万両に減額されたという。
結局その後に龍馬は暗殺されてしまい、
賠償金は龍馬の手に入りませんでした。


鐘楼」。
享保元年(1716)建立の鐘楼
現存する県内最古の鐘楼建築とのこと。
内部の梵鐘は非常に優れたもので、
その音は郊外まで響いたとされます。
[鉄心の大鐘]として人々に親しまれたという。
扉の桃の意匠が可愛らしい。
国指定重要文化財。


志”やがたらお春の碑」。
じゃがたらお春の碑。
お春は尹人航海士ニコラス・マリンと、
長崎の貿易商の娘マリアとの間に生まれ、
長崎に住んでいたとされますが、
寛永16年(1639)の第五次鎖国令により、
バタヴィア(ジャカルタ)へ追放されました。
やがて幕府は明暦元年(1655)頃より、
追放された日本人との交信を緩和し、
日本に残る親戚等への音信を許可。
彼らはオランダ人に手紙や金品を預け、
親戚や知人に送っていますが、
その文は望郷の念が込められたもので、
[じゃがたら文]と呼ばれました。
じゃがたらお春が日本に送った文は、
千はやふる 神無月とよ・・で始まり、
・・あら日本恋しや ゆかしや 見たや
見たや 見たや はるよりで結ばれます。
極めて情緒的で美しい文であった為、
涙を誘ったようです。
・・が、これはお春の文ではないようで、
これを長崎夜話草で紹介した西川如見が、
追放された人々を悲劇的に演出する為、
創作した文だとされています。
お春は後にシモン・シモンセンと結婚し、
男四女の子宝に恵まれており、
夫のシモンも東インド会社社員を経て、
独立して貿易で大儲けしたとされ、
夫の死後も遺産で裕福に暮らしたという。
勿論望郷の念はあったでしょうが、
悲劇的な人生を送ったかというと、
どうも疑問符が付くようですね。

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