城を自焼し香春に移った小倉藩でしたが、
藩庁が御茶屋では色々と不便ということで、
明治2年12月に豊津に移ります。
9代小笠原忠幹は慶応元年9月に死去し、
嫡子小笠原忠忱は僅か4歳で家督を相続。
忠幹の死は戦時中は秘匿されており、
戦後の慶応3年に幕府に死去を届け、
正式に忠忱が藩主となっています。
みやこ町豊津にある小笠原神社周辺が、
その豊津陣屋のあった場所。
みやこ町豊津グラウンドの東側に、
小笠原神社の一の鳥居があります。
「一の鳥居」。
夕方でぼやけた写真になってしまいました。
この場所が豊津陣屋の大手門跡。
ここからグラウンドを一直線に抜けると、
小笠原神社があります。
「小笠原神社本殿」。
小笠原神社は小笠原家祖霊を祀る神社。
この神社が建っている位置が、
天守の建設予定地でした。
本殿よりグラウンドを望む。
この一面が陣屋の敷地だったようですが、
かなりの規模のようです。
残念ながら天守が建てられる事は無く、
豊津藩、豊津県の政庁として機能した後、
小倉県および福岡県に統合されました。
豊津藩は藩庁の移転をくりかえしており、
余裕のある藩政ではありませんでしたが、
藩士子弟の教育をおろそかにはせず、
藩庁移転と同時に藩校育徳館を開きました。
育徳館の正門であった黒門は、
県立育徳館高等学校に保存されています。
「黒門」。
校舎は地元の商人玉江彦右衛門が寄付し、
この黒門も同時に建てられました。
育徳館は斗南藩から留学生を受け入れ、
藩士子弟らを教育していますが、
その中に萱野権兵衛の息子もおり、
謎の自刃を遂げています。
※記事はこちら。
この育徳館の出身者には、
NECの創業者である岩垂邦彦や、
薩長や皇族以外での初の元帥と奥保鞏等。
豊津藩の藩校育徳館は廃藩置県後、
旧制中学時代や新制高等学校時代を経て、
育徳館中学、高等学校となっています。
【豊津藩】
藩庁:豊津陣屋
藩主家:府中小笠原宗家
分類:15万石、譜代大名
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小倉小笠原家15万石の居城。
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香春の御茶屋を仮藩庁としました。