開善寺にある渋田見家の墓所。
「渋田見家墓所」。
渋田見家は信濃の国人仁科氏の支流。
天正壬午の乱後に小笠原家に仕官し、
渋田見長盛、渋田見政長父子が、
大坂の陣で活躍しました。
以降は小倉藩小笠原家に代々仕え、
1700石の知行を与えられており、
重臣拾四家のひとつとなっています。
中央の[宗琳院乘公之碑]は、
渋田見舎人盛明の墓ですが、
他の墓の被葬者は不明。
幕末期の当主渋田見舎人は、
小倉戦争で二番手大将を務め、
その継嗣である渋田見縫殿助(新)は、
三番手大将を務めていますが、
彼らの墓碑はありませんでした。
後に縫殿助は戊辰戦争に出陣しており、
小倉藩兵を率いて会津戦争に参加。
※小倉藩は五次に分けて藩兵を派遣。
一次:平井小左衛門隊137名、
二次:島村志津摩隊100名、
三次:渋田見縫殿助隊356名、
四次:小笠原若狭隊320名、
五次:鈴木七郎兵衛隊82名、
軍夫含めると千数百名が出兵した。
会津降伏後に会津藩士護送を命じられ、
秋月悌次郎や佐川官兵衛を護送しています。
これらの墓は昭和36年に開善寺が市街から、
※小倉北区馬借1丁目。
現在地に移転した際に改葬されたもの。
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