小倉藩の御名字之族

藩主家に飽き足らず家老家にも手を伸ばし、
その資料に少なさに驚愕しているのですが、
それでも長州藩は非常に資料は豊富。
図書館に足を運んで探せば、
何らかのヒントは見つかります。
その感覚でお隣の小倉藩を調べると、
びっくりする程資料が少ない。
小倉藩の家老家を調べてみても、
家系図のようなものは見当たらず、
[諸士由緒]という図書館の閉架資料から、
一門家老の[御名字之族]を調べました。

[諸士由緒]に記載されていたのは以下。

小笠原五郎三郎(1300石)開善寺
元祖は小笠原刑馬長弘(小笠原忠真九男)。
中津藩2代小笠原長勝の家臣でしたが、
小倉藩2代小笠原忠雄の招かれて、
中老として家臣に列しました。
長弘の次代は嫡男小笠原刑馬長芳

小笠原織衛(1500石)宗玄寺
元祖は小笠原因幡長慶(小笠原秀政七男)。
兄の初代小笠原忠真に7000石を与えられ、
有馬浦(島原の乱?)で初陣を飾りますが、
後に故有って蟄居処分となり、
300石に減封されました。
嫡男小笠原長武は中老となるも継嗣無く死去。
次男小笠原隆範は出家。
三男小笠原重長が跡を継ぎ、
1450石を与えられて中老となったようです。
※他の資料では長慶ではなく忠慶
 七男ではなく五男となっています。


小笠原禊(1500石)開善寺
元祖は小笠原出雲守長俊(小笠原秀政八男)で、
幼少期は愛宕山威徳院に入っていましたが、
後に下山して板倉重宗の尽力により、
徳川家光に仕えて5000石を与えられ、
後に役を辞して隠居。
兄の忠真に500石を与えられており、
有馬浦に従軍しています。
次代小笠原帯刀長繁は1500石を与えられ、
中老に任命されました。

小笠原監物(1500石)開善寺
元祖は坂牧監物忠増(小笠原忠真八男)。
重臣坂牧兵右衛門正俊の養子となり、
2000石を所領していましたが、
故あって隠居。
後に2代忠雄に50人扶持を与えられ、
その嫡男は1500石を与えられた後、
小笠原の名乗りを許されており、
小笠原監物長枚となっています。

以上が御名字之族四家ですが、
幕末期の御名字之族四家は、
小笠原織衛1500石、
小笠原若狭1800石、
小笠原甲斐1600石、
小笠原内匠1500石と、
唯一織衛家は繋がりましたが、
その他が特定出来ません。
引き続き調査して行こうと思いますが、
なかなか難しいと思います。

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