藩主家に飽き足らず家老家にも手を伸ばし、
その資料に少なさに驚愕しているのですが、
それでも長州藩は非常に資料は豊富。
図書館に足を運んで探せば、
何らかのヒントは見つかります。
その感覚でお隣の小倉藩を調べると、
びっくりする程資料が少ない。
小倉藩の家老家を調べてみても、
家系図のようなものは見当たらず、
[諸士由緒]という図書館の閉架資料から、
一門家老の[御名字之族]を調べました。
[諸士由緒]に記載されていたのは以下。
●小笠原五郎三郎(1300石)開善寺
元祖は小笠原刑馬長弘(小笠原忠真九男)。
中津藩2代小笠原長勝の家臣でしたが、
小倉藩2代小笠原忠雄の招かれて、
中老として家臣に列しました。
長弘の次代は嫡男小笠原刑馬長芳。
●小笠原織衛(1500石)宗玄寺
元祖は小笠原因幡長慶(小笠原秀政七男)。
兄の初代小笠原忠真に7000石を与えられ、
有馬浦(島原の乱?)で初陣を飾りますが、
後に故有って蟄居処分となり、
300石に減封されました。
嫡男小笠原長武は中老となるも継嗣無く死去。
次男小笠原隆範は出家。
三男小笠原重長が跡を継ぎ、
1450石を与えられて中老となったようです。
※他の資料では長慶ではなく忠慶、
七男ではなく五男となっています。
●小笠原禊(1500石)開善寺
元祖は小笠原出雲守長俊(小笠原秀政八男)で、
幼少期は愛宕山威徳院に入っていましたが、
後に下山して板倉重宗の尽力により、
徳川家光に仕えて5000石を与えられ、
後に役を辞して隠居。
兄の忠真に500石を与えられており、
有馬浦に従軍しています。
次代小笠原帯刀長繁は1500石を与えられ、
中老に任命されました。
●小笠原監物(1500石)開善寺
元祖は坂牧監物忠増(小笠原忠真八男)。
重臣坂牧兵右衛門正俊の養子となり、
2000石を所領していましたが、
故あって隠居。
後に2代忠雄に50人扶持を与えられ、
その嫡男は1500石を与えられた後、
小笠原の名乗りを許されており、
小笠原監物長枚となっています。
以上が御名字之族四家ですが、
幕末期の御名字之族四家は、
小笠原織衛1500石、
小笠原若狭1800石、
小笠原甲斐1600石、
小笠原内匠1500石と、
唯一織衛家は繋がりましたが、
その他が特定出来ません。
引き続き調査して行こうと思いますが、
なかなか難しいと思います。
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開善寺にある小笠原内匠祖の墓。
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初代藩主五男小笠原忠増らの墓所。
・福岡県北九州市 宗玄寺/小笠原家老家墓所
詳細不明な小笠原家の墓所。