妙恵会総墓所は松永彈正久秀の屋敷跡を、
本圀寺塔頭戒善院の墓地として寄進したもの。
久秀は戒善院の檀徒だったようで、
以来400余年塔頭寺院で管理されています。
「妙恵会総墓所」。
妙恵会は塔頭寺院の集まりの会のようで、
勧持院、松林院、智光院、智了院、林昌院、
真如院、詮量院、了光院、松陽院、了円院、
本実院、本妙院、本栖院、智妙院、久成院、
一音院、瑞雲院、英鏡院の18ヶ寺が、
この墓地を管理している模様。
ここには松永久秀の墓の他にも、
幕末期の人物等の墓もあります。
「高岳院久通居士
妙久寺殿祐雪大居士
法賢院宗秀居士」。
戦国の姦雄松永久秀とその息子らの墓。
※妙久寺院が久秀で高岳院が長男松永久道。
法賢院は該当者がおらず不明です。
久秀の出自は諸説あって謎とされており、
三好長慶の右筆から重臣になったようで、
長慶死後は三好三人衆と足利義輝を暗殺。
その後は三人衆と反目して抗争し、
織田信長の配下となっていますが、
武田信玄と通じて信長に背いています。
室町幕府の崩壊後に再び信長に仕えますが、
再度信長に反抗。
信長の攻撃で居城信貴山城は陥落し、
名茶釜[平蜘蛛]を破壊して自害しました。
長男松永久道も同時に自害。
墓碑には久道の他に[居士]の名がありますが、
久秀には男子が久道しかいないようで、
該当する人物が見当たりません。
「尾関當遵之墓」。
館林/浜田(鶴田)藩家老尾関当遵の墓。
当時館林藩だった越智松平家の筆頭家老で、
幕末期の難局に対応した人物。
越智松平家は浜田藩へ移封となり、
尾関は浜田城の城代家老を務めました。
しかし慶応2年に石見戦争が発生し、
長州藩の猛攻により浜田藩は追い込まれ、
城を自焼して飛地の鶴田へ退却。
鶴田陣屋を建設して鶴田藩を立藩します。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、
一部の藩士らが旧幕府軍に参加した為、
尾関は上洛して新政府に弁明。
新政府は藩主か世子の上洛を命じますが、
藩主松平武聰は病床にあり、
嫡男熊若丸も幼少で上洛は不可能だった為、
新政府は代わりに家老一名の切腹を求め、
家中の家老らが次々と名乗り出る中で、
自分が[高齢者で先がない事]、
[家中で最も高禄である事]を理由に、
慶応4年閏4月19日に本圀寺にて切腹。
新政府は尾関の忠節を高く評価し、
鶴田藩の加増を決めると共に、
尾関の遺族への加増を指示しました。
無縁墓の集まりに旧墓石を発見。
新しいものに変えられたようです。
■関連記事■
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藩主家である越智松平家の墓所。
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浜田藩及び鶴田藩の家老河鰭景岡の墓所。
・岡山県津山市 鶴田陣屋跡
鶴田藩越智松平家の陣屋跡。
京都府京都市 妙恵会総墓所/尾関当遵墓所
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