東京都荒川区 善性寺/越智松平家墓所

善性寺は東日暮里にある日蓮宗寺院で、
尊重院日嘉の開山とされています。
6代将軍徳川家宣の生母長昌院が、
この善性寺に葬られた事から、
将軍家所縁の寺となったという。
長昌院は落飾前は於保良と呼ばれ、
松坂局の侍女として大奥に入りましたが、
甲府藩藩主徳川綱重のお手付きとなり、
※綱重は3代将軍徳川家光の三男。
 松坂局は綱重の乳母。

虎松熊之助を生みました。
しかし於保良は身分が低く、
綱重よりも7歳も年上だった事や、
関白二条光平の娘隆崇院との縁談もあった為、
二人の男子は家臣に預けられます。
隆崇院は綱重に嫁いだ7年後に死去した為、
継嗣のいない綱重は虎松を呼び戻し、
徳川綱豊として家督を相続。
後に5代将軍徳川綱吉の継嗣となり、
6代将軍徳川家宣となりました。
一方で熊之助は家臣越智喜清の養子となり、
家督を継いで越智吉忠となっていましたが、
実兄の家宣が将軍となった為、
直参となって旗本交代寄合に列しており、
後に加増のうえ松平姓も与えられ、
松平清宣(後に清武)となっています。
於保良は二人の息子が預けられた後、
間もなく病死しており、
老女であった日安尼が善性寺を再興し、
善性寺に於保良を葬っていましたが、
家宣が将軍に就任した為に、
将軍家菩提寺の寛永寺に改葬されています。


善性寺」。
清武はここに隠棲したとされていますが、
死去まで隠居はしていないようですので、
どういう経緯かよくわかりません。
その清武に会いに家宣が訪れたとされますが、
たぶん将軍就任以前の話ではないでしょうか。
資料が無いので断言は出来ませんが、
実母の墓が改葬される前の善性寺なら、
辻褄が合うと思います。

清武は実母が葬られた善性寺を墓所とし、
以後は越智松平家の歴代墓所となります。

浜田藩越智松平家墓所」。
本堂右側にある越智松平家の墓所。
往時は広い墓域を持っていたようですが、
現在は整理されており、
初代清武の墓以外は纏められています。


本賢院従四位殿下行侍従弘毅齋墓」。
越智松平家初代当主松平清武の墓。
清武は甲府藩士越智喜清の養子となり、
越智家の家督を継いでいましたが、
藩主である兄の家宣が将軍となった事で、
越智家は直参旗本となります。
その後は加増によって諸侯に列し、
館林藩5万4000石の藩主となり、
更に松平姓も与えられました。
廃城となっていた館林城を、
規模を縮小して再建。
17年の治世の後に死去しています。


松平家諸霊之墓」。
越智松平家の合葬墓。
墓地の区画整理の為に改葬し、
諸霊43霊を合葬したもの。
越智松平家は3代松平武元の代に、
一時棚倉藩へ移封となりますが、
武元が西ノ丸老中となった際に、
再び館林藩に戻りました。
その後5代松平斉厚の代で浜田藩へ移り、
幕末まで浜田藩を治めていますが、
8代松平武聰石州戦争において、
長州藩の先制攻撃を受けてしまい、
浜田藩の主要領地は占領されています。
藩主家や家臣達は飛地の鶴田に辿り着き、
鶴田領8000石と幕府に与えられた2万石で、
鶴田藩を立藩していますが、
その後の廃藩置県により消滅しました。


濱田藩殉難諸士碑」。
浜田藩の藩士らは石州戦争、鳥羽伏見の戦い
上野戦争と幕府側として参加しており、
※藩としての参加は石州戦争のみで、
 他は脱藩藩士らの独断。

敗戦を重ねる事となっています。
この碑は明治19年に旧藩有志によって、
藩主家の墓所に建てられたもの。
その当時はまだ広い墓域でした。

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