法住寺は三十三間堂の東にある天台宗寺院。
平安中期に藤原為光によって創設され、
後に後白河法皇の御所[法住寺殿]が置かれて、
その院政の中心となっています。
法住寺殿は木曽義仲が消失させますが、
後白河法皇が崩御した際には御陵となり、
法住寺は御陵を守る寺として再建。
維新後は御陵と寺は分離されていますが、
双方とも現地に存在しています。
「法住寺」。
訪問時は門が閉ざされていましたが、
御陵には脇から行けるようになっています。
ちなみに長谷川町子の菩提寺らしい。
「法住寺陵」。
77代後白河天皇の御陵。
74代鳥羽天皇の第四皇子で、
76代近衛天皇の急死に伴い皇位を相続。
在位中に保元の乱が発生し、
これに勝利して崇徳上皇を配流させますが、
78代二条天皇への譲位後の平治の乱で争い、
後に実権を奪われてはいますが、
79代六条天皇が即位すると院政を再開します。
89代高倉天皇の代には平清盛が反乱し、
院政は停止に追い込まれて後白河法皇は幽閉。
高倉天皇は傀儡となり安徳天皇に譲位しました。
源頼政は平家打倒の為に挙兵しますが、
平家はこれを破っており、
後に源頼朝や木曽義仲が挙兵し、
平家は劣勢となって安徳天皇と共に西走。
後白河法皇は院政を再開しますが、
木曽義仲は法住寺殿を焼き討ちしています。
源頼朝は源範頼、源義経に命じて義仲を討ち、
更に壇ノ浦で平家を滅ぼしました。
その後に頼朝と義経の関係が悪化し、
義経は法皇に頼朝追討の宣旨を出させますが、
兵が思う様に集まらなかった為に退去。
義経は後に藤原泰衡に奥州で討たれており、
頼朝は追討宣旨をの件を法皇に追及し、
その関係は悪化しましたが、
頼朝が上洛して法皇と対面して関係を改善。
法皇は建久3年(1192)に崩御しています。
頼朝は法皇の崩御後に征夷大将軍に就任し、
以後は武士の時代に入りました。
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