御所の南西角に椋の巨木があります。
この木は樹齢300年とされており、
清水谷家の邸内にあったもの。
この清水谷家は西園寺家(清華家)の一族で、
西園寺公経の二男一条実有を祖とし、
8代一条実秋が摂関家との重複を避け、
清水谷家と改めたようてす。
羽林家200石の家格で雅楽を家業とし、
維新期の当主清水谷公考は、
箱館裁判所総督や箱館府知事に就任。
榎本武揚率いる旧幕府軍と戦い、
敗北して青森に退却しました。
そこで青森口総督に任じられており、
参謀黒田清隆と共に箱館を奪還し、
府知事に復帰して戦後処理を担当。
箱館府が廃された際に帰京し、
箱館戦争の恩賞250石を賜っています。
「清水谷家の椋」。
非常に立派な椋の木です。
禁門の変で来島又兵衛隊は中立売門を突破し、
駆け付けた薩摩藩兵と交戦。
来島は川路利良に胸部を狙撃されて落馬し、
この椋の木の辺りで自刃したとされます。
介錯は甥の喜多村武七が行い、
首級は持ち帰られており、
胴体も力士隊の片山常吉が担いで運び、
首級、胴体共に天龍寺に埋葬。
後に霊山に改葬されていますが、
更に峨嵋山に再改葬されています。
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