毛利家の防長移封後、
重臣桂能登家は桂家の嫡流で、
小野村を知行地として拝領し、
長州藩の寄組士として続きました。
同家は毛利元就の忠臣桂元澄の後、
桂元延、桂元重、桂元相、桂元時、
桂元澄、桂元綱、桂就政、桂就澄、
桂廣尚、桂廣保、桂元冬、桂親保、
桂房就(房政)、桂員寿と続き、
幕末期の当主桂武之助に至ります。
※員寿から武之助の繋がりの資料がなく、
この辺りの詳しい系譜は不明。
知行地小野の阿武瀬丸山の墓地に、
13代桂就政の墓所があります。
「帰源聯芳院殿拙道秀居士覚霊」。
桂能登家13代当主桂就政の墓。
父元綱が25歳で急死した為、
寛政14年(1637)に2歳で家督を相続。
元服後は藩主名代を務める等、
藩主の信頼を得ていましたが、
疱瘡を患い片目を失明してしまいます。
この為に役職を辞退しようとしますが、
その才を惜しまれて許されず、
粟屋帯刀を補佐役として勤めを続け、
寛永8年(1631)に死去しました。
「永代 桂家中貴賤男女
童形胎傷之統霊 合祭墓」。
桂家の墓所は萩の長寿寺を経て、
東京の清澄苑に移っており、
就政の墓以外は残っていません。
この合祭墓は弘化4年(1847)の建立で、
当主含む桂家家中全てのものとのこと。
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・広島県廿日市市 洞雲寺
初代桂元澄の墓所。
山口県宇部市 桂就政墓所
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