洞雲寺は廿日市市にある曹洞宗寺院。
厳島神社神主藤原教親の開基で、
長享元年(1487)に金岡用兼禅師が創建し、
その師為宗仲心禅師を開山としています。
「洞雲寺」。
本尊は釈迦如来。
大内家や毛利家ら領主の庇護を受けており、
浅野家には32石の寺領を与えられました。
この洞雲寺には陶晴賢、友田興藤の墓の他、
毛利元清夫妻や桂元澄夫妻の墓があります。
本堂左側の墓地へ。
「尾張守 陶晴賢入道全姜公墓」。
陶晴賢の墓。
晴賢は大内義隆の家臣でしたが、
家中での勢力争いの末に謀反を起こし、
大寧寺の変で義隆を殺害しています。
そのうえで大友宗麟の弟大内義長を擁立し、
大内家の家督を継がせますが、
毛利元就がこれに反発して敵対し、
大軍を率いて厳島の戦いで元就と戦いますが、
奇襲攻撃を受けて惨敗してしまい晴賢は自刃。
桜尾城で首実験が行われた後、
ここに葬られました。
「櫻尾城主上野之介興藤之墓」。
桜尾城主友田興藤の墓。
興藤は厳島神社神主藤原家の一族で、
大内義隆が神領支配を目論んだ為、
これに対抗して大内家と戦いました。
しかし大軍に抗しきれずに敗れ、
桜尾城を自焼させて自害。
この墓は生前に建てられた逆修墓で、
それ故に立派なものとなっています。
今度は本堂右手側から奥へ。
こちらには毛利元清夫妻の墓と、
桂元澄夫妻の墓があります。
「洞雲寺笑山墓」。
長府藩初代藩主毛利秀元の父毛利元清の墓。
元清は毛利元就の四男で、
実母は元就継室乃美の大方です。
桜尾城を与えられて支配していましたが、
備中の猿掛城も与えられて支配し、
猿掛城のあった穂田郷に因み改姓。
穂井田(穂田)元清と名乗りました。
毛利家の主要な戦いに参加して功を挙げ、
豊臣政権下でも同じく功を挙げており、
嫡男毛利秀元が毛利輝元の養子となると、
自らも毛利姓に復帰しています。
※秀元は後に廃嫡されており、
別家を創設して長府毛利家となります。
文禄の役では毛利軍の総大将を務め、
虎を2頭生け捕って秀吉に送っており、
続く慶長の役には病気で参加せず、
同年に47歳で死去しています。
「松渓妙寿墓」。
元清の室村上氏の墓。
長府藩初代毛利秀元の実母ですが、
詳しい事はわかりません。
「桂元澄夫妻墓」。
桂家6代当主桂元澄夫妻の墓。
桂家は毛利氏の庶流坂家の分家で、
坂広明の子広澄が桂村に移住し、
桂広澄と改めたことに始まります。
元澄は広澄の嫡男として生まれ、
広澄と共に元就に臣従していましたが、
一族の坂広秀が相合元綱と謀反を起こし、
その末に誅殺される事件が発生すると、
無関係ながら責任を取って広澄は自刃。
元澄もこれに続こうとしますが、
これは元就に制止されています。
以後は元就に忠誠を尽くしてたようで、
厳島の戦いでは陶晴賢に偽の内応書を送り、
厳島に晴賢を誘き寄せる大功を挙げました。
元澄は70歳で死去していますが、
以後も桂家は毛利家に仕えており、
長州藩設立後は寄組に2家、
大組に12家と子孫は繁栄しています。
※嫡流は匡時-匡家-広秋-広明-広澄-元澄–
元延-元重-元相-元時-元澄-元綱-就政-
就澄-広尚-広保-元冬-親保-房政-員寿‥
(近世防長諸家系図綜覧より)
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元清の子毛利秀元は長府藩初代藩主。
・山口県山口市 正護寺
陶晴賢の分骨塔があります。