廿日市宿は西国街道の31番目の宿場町。
廿日市は古くは廿の浦と呼ばれ、
鎌倉時代に厳島神主藤原親実が移住して栄え、
毎月廿日に市が立つようになった為、
廿日市というようになったとのこと。
西国街道の宿場として馬15頭が置かれ、
旅館が建ち並んでいた他、
津和野藩の御船屋敷も置かれていたようで、
物資の集積地でもあったようです。
廿日市市廿日市周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが廿日市宿跡。
西側より散策。
「廿日市宿跡(西側)」。
慶応2年の芸州戦争の際、
広島藩は長州藩の通過を阻止する為、
町屋に火を放ったとされており、
その際に焼失した家屋は全体の2/3に及び、
3日間も燃え続けたとされています。
この為か古い町屋は余りありません。
「桝形」。
宿場の中心部は桝形となっています。
「廿日市本陣跡(中央市民センター)」。
廿日市の本陣を務めた山田家跡。
山田家は承久年間に鎌倉から下向し、
神社の鉄具鋳造を生業としてきたようで、
この場所に立派な屋敷が建っていましたが、
上記の放火で灰塵に帰したようです。
「廿日市天満宮」。
本陣跡の斜め向かいは廿日市天満宮。
藤原親実下向の際に鎌倉の荏柄天神を勧請し、
篠尾山に社殿を造り鎮座させたもの。
非常に高い位置にあるので、
慶応2年の放火を免れたとは思いますが、
明治17年に火災を起こして焼失しており、
明治22年に再建されているようです。
参拝しようかとも思ったのですが、
大変そうなので登るのは断念しました。
「廿日市宿跡(東側)」。
東側も古い町屋は殆ど無し。
「廿日市招魂社」。
明治18年の明治天皇行幸の際に、
この場所にあった岩尾邸で休憩したとされ、
後に招魂社が建てられています。
招魂社の辺りで道は北に折れ、
なだらかに東に曲がります。
どこまでが廿日市宿かは不明ですが、
似たような道が続いています。
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