鹿児島県垂水市 安徳天皇陵

元暦2年/寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いで、
源氏平家は最後の戦いを行い、
平家は滅亡して海の藻屑となっています。
敗北が決定的となった際に二位尼は、
平清盛の継室で安徳天皇の外祖母。
宝剣神璽を抱えて入水。
按察使局伊勢安徳天皇を抱いて続き、
※二位尼や建礼門院に仕えた女官。
建礼門院女官達も次々に身を投げました。
高倉天皇の皇后で安徳天皇の母。
その際に天皇は二位尼はどこに行くかと問い、
これに二位尼は涙を流しながら微笑み、
波の下にも都がございます」と答えたという。

入水した安徳天皇はそのまま崩御し、
二位尼も死去してはいますが、
源氏方の兵によって按察使局や建礼門院、
そして多くの女官達は助けられています。
これは彼女らの衣服が沈まなかった為、
多くが助け出されたとされています。
※按察使局は剃髪して安徳帝の菩提を弔い、
 久留米に社を建てたとされており、
 これが水天宮の始まりとのこと。
 按察使局は清盛の孫平右忠を後継とし、
 これ宮司眞木家の祖となっています。

※建礼門院も剃髪して大原の寂光院に入り、
 安徳天皇と一門の菩提を弔っています。


・・というのが定説ではありますが、
安徳天皇は入水せずに落ち延びたと、
全国に多くの伝説が残っています。
僕は基本的にどの生存説も懐疑的で、
こういうのは余り信じてはいません。
特に安徳帝生存説に関しては、
立派な身なりをした少年が隠れ住み、
正体を明かさぬまま死んでしまった為、
あれは安徳帝だったのでは?と、
地元民が噂したのだと考えます。
立派な身なりは安徳帝だけではなく、
幹部クラスの子息もしてるでしょう。
とはいえこれらの伝説を与太話とは考えず、
何らかのドラマが隠されている筈。
そんな訳で伝承地も参っています。

今回はそんな安徳帝伝説のひとつで、
大隅国牛根で崩御したというもの。


傘仏首塚」。
安徳天皇陵の近くに建てられて塚。
天正2年(1574)に安楽兼寛が守る牛根城を、
島津義久が攻めた牛根城の戦いでは、
両軍に多くの戦死者が出たとされており、
その遺骸を埋葬した場所とされます。
元々牛根城は平家の残党が築城し、
源氏方の探索に備えたとされる城。
この場所の背後にある山が、
牛根城のあった場所だという。


安徳天皇陵入口」。
安徳天皇陵の近くには駐車場もあり、
その駐車場から御陵はすぐ近くです。


安徳天皇陵」。
薩摩風の霊廟形式の御陵。
伝説では屋島の戦いで敗れた平家が、
安徳天皇を密かに落ち延びさせ、
周防大島から日向灘を経て硫黄島に入り、
そこから牛根に流れ着たとされ、
この牛根の地に潜伏したとのこと。
しかし7人の山伏が追跡して来た為、
足に怪我をして状態が悪くなり、
これが悪化して13歳で崩御したという。
この御陵には8代藩主島津重豪も参拝し、
玉垣を奉献しています。

壇ノ浦の戦いではなく屋島の戦い後、
密かに落ち延びさせたとのことで、
成程あり得ない話ではありません。
但し平家は天皇が側に居なければ、
何らその正当性は確保出来ませんし、
落ち延びさせる利点は無いでしょう。
捕縛されて源氏方の手に渡れば、
平家の立場は更に悪化してしまいます。
やはり安徳天皇は最期まで同行し、
壇ノ浦で崩御したのでしょう。
入水後に遺骸は発見されますが、
按察使局や建礼門院も生きていますので、
必ず遺骸の確認をさせている筈。
やはり阿弥陀寺陵に埋葬された遺骸が、
安徳帝なのは疑う余地はありません。
とはいえここに伝説があるのは確かで、
高貴な13歳の少年がここに埋葬され、
それが本物の安徳天皇かもしれないと、
地元で信じられた事実があるのです。

■関連記事■
下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
 安徳天皇陵の治定地。
下関市豊田町 安徳天皇西市御陵墓参考地
 安徳天皇の陵墓参考地のひとつ。
熊本県宇土市 花園陵墓参考地
 安徳天皇の陵墓参考地のひとつ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です