広島藩家老上田家の初代上田重安は、
茶道に優れ流派を創設する程の茶人。
また多くの戦に参加した歴戦の勇士で、
一番槍の武功を何度も得た強者でした。
その没後は遺言により遺骨が海に流され、
遺髪のみが塚に埋葬されました。
廿日市市沖塩屋にある墓所。
「上田家墓所」。
串山という小高い山に設営された墓所。
荼毘に付された場所だったようで、
塚が築かれた場所が墓所となっています。
墓所は二ヶ所に分かれており、
代の順番があちこちバラバラですが、
初代、3代、9代、10代、12代、13代、
14代、15代と紹介します。
※通常は明治期までの当主を紹介しますが、
当主は家元で公人でもありますので、
15代まで全て紹介します。
「上田宗箇遺髪塚」。
松が植えられた重安の遺髪塚。
宗箇は重安の号です。
上田家は三代続く丹羽長秀の家臣で、
重安も長秀に従って各地を転戦。
長秀の子丹羽長重が減封を受けると、
重安は豊臣秀吉の直参家臣となり、
1万石の大名となっています。
関ヶ原の戦いでは西軍に与して改易され、
剃髪して流浪の身となりますが、
徳島で蜂須賀家政の客将となり、
後に浅野家の家老として迎えられました。
大坂の陣では塙直之を討ち取っており、
浅野家が広島藩に加増転封されると、
佐伯郡小方1万2000石を与えられ、
晩年は茶道と作庭を趣味としました。
特に茶道は達人の域に達しており、
自らの流派上田宗箇流を創設。
これが現在も続いています。
「知徳院墓」。
宗箇室知徳院の墓。
重安の塚の後方に墓がありますが、
玉垣のみで墓石は何もありません。
樹木墓で何か植えられていたのでしょう。
「三代上田重次墓(左玉垣)」、
「重次室蓮容院墓(右五輪塔(大))」、
「重次娘由良墓(右五輪塔(小))」。
3代当主上田重次の墓、
重次の室蓮容院の墓、
重次の娘由良の墓。
初代重安の墓から一番遠い位置ですが、
祖父の塚の近くに葬られる事を望み、
ここに埋葬されたと思われます。
2代及び4代以降は禅林寺を墓所とし、
江戸後期に10代上田安世が葬られるまで、
初代の塚と3代重次の墓所だった模様。
「九代上田安虎遺髪塚」。
9代当主上田安虎の遺髪塚。
こちらは遺髪塚で本墓は禅林寺です。
藩校設立に先駆け上屋敷に講学所を設立。
家臣の教育に力を入れた当主でした。
「十代上田安世墓」。
10代当主上田安世の墓。
初代、3代を踏襲した樹木墓ですが、
既に樹木は枯れて何もありません。
文化サロンとして松濤楼を設けた他、
家訓[戒慎録]を著しています。
「上田譲翁之墓」。
12代当主上田安敦の墓。
安敦は10代安世の子。
樹木墓ではなく方柱型の墓石ですが、
枯れるのを危惧したのでしょうか?
彼が幕末維新期の当主で、
混迷を極めた政情の時に国老を務め、
征長戦では広島藩先鋒となりました。
明治3年に隠居して家督を譲り、
茶の湯三昧の生活を送っています。
「正五位男爵上田安靖之墓」。
13代当主上田安靖の墓。
11代上田安節の子で12代安敦の養子となり、
明治3年に家督を継いでいます。
饒津神社の宮司を務めており、
先代の勲功により正五位男爵を叙爵。
ここまでが当ブログの範囲ですが、
以降の代も紹介します。
「上田宗翁之墓(左)」、
「上田松枝之墓(右)」。
14代当主上田宗雄の墓と、
夫人の上田松枝の墓。
14代宗雄は能書家で南画も描き、
花生や茶杓等の優れた作品も残しました。
「上田宗源之墓」。
15代当主上田元重の墓。
財団法人上田流和風堂を設立し、
饒津神社宮司や厳島神社名誉宮司も務め、
優れた書や茶器を作っています。
現在は16代上田宗冏が家元となり、
上田家に伝わった武家文化を、
宗箇の茶を核として現代に紹介し、
日本文化の今日のあり様を、
提唱しているとのことです。
■関連記事■
・広島県広島市 禅林寺/上田家墓所
広島市内にある上田家の墓所。
・広島県広島市 広島城
広島藩浅野家の居城跡。