禅林寺は広島藩家老上田家の菩提寺で、
福島正則が創建した臨済宗の寺院。
原爆によりその全てが焼失しており、
戦後に復興しています。
「本堂」。
福島正則が海国寺五世高厳を招き、
国泰寺の北側に開山させたようで、
寺領40石及び十人扶持が寄進され、
広大な境内を持っていたという。
後に藩命で現在地に移転しており、
周辺に東寺町が形成されています。
家老家上田家の菩提寺として、
江戸時代を通じて隆盛したようで、
上田家以外にも広島藩士の多くが、
ここを墓所としていました。
原爆で破壊された後に再建された際、
その寺域は縮小されたようで、
上田家の墓石は墓地の一角に集められ、
9代の五輪塔のみ正規の姿をしています。
「大雲院龍巖靈泉大居士」。
9代当主上田安虎の墓。
藩校設立に先駆けて講学所を設立し、
家臣らの教育を重視したという。
絵画が得意だったようで、
自筆の[鷹図]等の絵が現存しています。
初代当主上田重安(宗箇)は、
丹羽長秀の家臣として戦場で活躍し、
本能寺の変が起こった際は、
明智光秀と通じた津田信澄を長秀が攻め、
その首を重安が挙げています。
長秀の死後は豊臣秀吉の直臣となり、
秀吉の脇備えとして主要な戦に従軍。
関ヶ原の戦いで西軍となって改易され、
その後は蜂須賀家の客将を経て、
縁者であった浅野長政に仕えており、
大坂の陣にも出陣しました。
武人として数々の戦功を挙げた他、
茶道や作庭にも定評があったようで、
特に茶道は千利休や古田織部に学び、
上田宗箇流の流祖となった程。
以後は歴代当主が家元を務め、
現在も続いています。
歴代当主の墓は五輪塔だったようで、
現在はその地輪のみ集められ、
9代安虎の墓の後に並べられています。
上段左より、
「天柱院前備州刺史玉岩玄光大居士」、
2代当主上田重政の墓。
「有恪院殿紹千令終大居士」、
11代当主上田安節の墓。
「大禪院關峰了三大居士」、
7代当主上田義敷の墓。
「眞光院清窓觀月大姉」、
「温恵院殿淑慎貝鑑大姉」、
当主の奥方と思われる墓。
下段左より、
「不白院孤山了雪大居士」、
5代当主上田義行の墓。
「大機院一關良超大居士」、
4代当主上田重羽の墓。
「曹源院市滔滴水大居士」、
8代当主上田義珍の墓。
「西來院栢樹祖心大姉」、
こちらも当主奥方と思われる墓。
「乾澤院特類道達大居士」、
6代当主上田義従の墓。
これは非常に画期的な保存方法です。
墓域確保の為に大名墓等を整理し、
貴重な遺産を破壊する寺院もある中、
地輪だけならスペースはいらない。
たぶん原爆で破壊された為、
苦肉の策でこうなったのでしょうが、
非常にナイスなアイデアと思います。
もちろん現状維持が一番ですが、
完全に無くしてしまうよりは、
絶対この方が良いと思います。
初、3、10代及び12代以降の墓所は、
廿日市市の串山にあるようですが、
実はここにも初代の遺髪塚があったらしい。
※串山の方も遺髪塚のようです。
また別の機会に再訪して追記致します。
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