山口県山口市 正護寺

正護寺は山口市陶にある臨済宗寺院。
延文年間(1356-1361)に陶弘政が建立し、
陶家の祈願所となっていましたが、
陶氏滅亡と共に荒廃しました。
これを大円恵満和尚が嘆き、
陶氏居館があった場所に再建。
元々は曹洞宗だったようですが、
再建の際に臨済宗となったようです。


本堂」。
本堂は江戸期に建設されたもので、
本尊は釈迦牟尼仏
他に平安期木造薬師如来坐像もあり、
県下最古の木造物であるという。
明治3年の脱退騒動の際には、
この寺が脱退兵の屯所となったようで、
本堂の柱に銃痕が残っているらしい。


維新之俊傑 富永有隣先生招魂之碑」。
富永有隣の招魂碑。
正護寺は富永家の菩提寺だったようで、
富永家の墓所もあるようです。
※見つけられませんでした。
有隣の墓は晩年過ごした田布施町にあり、
山口県熊毛郡 富永有隣墓所
ここに有隣の墓はありませんが、
所縁の深い寺であった事から、
有志により招魂碑が建てられたようです。
有隣については何度か記載していますので、
詳しくは割愛させて頂きますが、
野山獄吉田松陰と出会い、
松下村塾の講師となった人物で、
国木田独歩の小説のモデルにもなっています。


陶晴賢分骨塔」。
歴代住職の墓の最端にある陶晴賢の分骨塔。
大内義隆の家臣であった陶晴賢は、
義隆を討って大内義長を擁立しますが、
厳島の戦い毛利元就に敗れて自害。
墓所は広島の洞雲寺にありますが、
ここに分骨されているようです。

正護寺墓地へ。

北川清助墓」。
小郡宰判最後の代官北川清助の墓。
大島郡の領民の子だったようですが、
陶の在郷士族北川半衛門の養子となり、
幼少から学問や武芸に励み、
西洋砲術も身に付けていたとされます。
長じて小郡宰判に勤務しており、
文久3年には福田口鉄砲製造所設置で、
建設の監督者となったようで、
その功績で元治元年から明治2年まで、
小郡の代官に任命されました。
長州内訌戦では諸隊に味方し、
要請に応じて軍資金兵糧を援助。
宰判管内の庄屋や郷士と協力し、
軍夫を集める等もしています。
明治3年の脱退騒動では鎮圧に尽力し、
廃藩置県後に官職を退いていますが、
明治10年の西南戦争では、
軍夫を率いて戦場に赴いたという。
晩年は陶で余生を過ごしており、
明治35年に死去しています。

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