国司家6代当主国司元武は、
父国司元相の隠居により家督を継ぎ、
毛利家五奉行のひとりとして活躍。
毛利輝元の守役も務めており、
輝元より絶大な信頼を得ていたという。
息子の早世で跡取りが居なかった為、
弟の国司元蔵に家督を譲りますが、
隠居後も朝鮮出兵に従軍する等、
毛利家の為に貢献しました。
関ヶ原の敗戦で毛利家が減封されると、
元蔵は徳地1600石を与えられており、
元武もこれに従っています。
その元武及び元蔵の墓が、
徳地伊賀地の西方寺墓地にあります。
※西方寺は廃寺となっています。
「国司元武墓(左)」、
「国司元蔵墓(右)」。
※墓碑銘読めず。
国司家8代当主国司元武の墓と、
9代当主国司元蔵の墓。
8代元武は輝元の守役だった為か、
晩年も親しい間柄であったようで、
互いに酒好きであったこともあり、
いつも2人で飲んでいたようです。
9代元蔵は兄の隠居で家督を相続。
朝鮮出兵で武功を挙げる等、
輝元にも称賛されていたとされ、
防長移封の際には城地選定の為、
福原広俊と共に折衝にあたりました。
元蔵は元武に先立ち死去しており、
10代は嫡男国司就正が相続。
就正の代で領地替えが行われ、
国司家は万倉領主となっています。
国司家が徳地を領したのは25年間で、
その後は藩の直轄地となっています。
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