宇部市万倉にある天龍寺に再訪。
このお寺に国司親相の墓がありますが、
既に7年前に訪問済み。
山口県宇部市 天龍寺/国司家墓所
当時は幕末の当主のみを記事としており、
歴代当主には触れませんでしたが、
現在は歴代当主も記事としていますので、
今回再び訪問する事としました。
「本堂」。
七年前と何ら変わらぬ本堂。
瓦が少し色あせたような気がしますが、
光の加減かもしれません。
天龍寺は南北朝時代に厚東武村により、
正楽寺として建立されますが、
厚東氏の滅亡後により荒廃。
その後の室町時代に桃岳和尚が再興し、
天竜寺と寺名改めました。
戦国時代には杉重良が菩提寺としますが、
重良の謀反後に再び荒廃。
後に万倉に国司家が入った際に再興され、
国司家の菩提寺となっています。
「国司家墓所」。
国司家の墓所は本堂から山側に入った場所。
歴代の墓所と21代親相夫妻の墓に分かれ、
それぞれが玉垣で囲まれています。
先ずは左側玉垣内の歴代の墓所。
中央の3基が前期の当主です。
「国司備後就正の墓(右:墓碑銘読めず)」、
「嘉山宗永居士(中央)」、
「顕徳院殿元寂幽夢量居士(左)」。
7代当主国司元相の墓(中央)、
10代当主国司就正の墓(右)、
12代当主国司広直の墓(左:推定)。
7代元相は毛利隆元の傅役を務め、
尼子晴久との郡山合戦では、
34の首級を挙げたとされます。
生涯で130の首級を挙げた豪の者ですが、
後に毛利元就が五奉行制を定めると、
赤川元保、粟屋元親、桂元忠、
児玉就忠と共にその一人に就任。
将軍足利義輝に面会した際には、
槍の鈴の免許を与えられています。
10代就正の代に万倉に領地替えされ、
以降万倉領主として続きました。
※それ以前は周防国佐波郡の伊賀地。
12代広直以降の墓はあるのですが、
11代国司就長の墓所は不明。
残念ながら資料が少なく、
全ての当主の特定は出来ませんでした。
「光〇院殿龍〇宗〇居士(右)」、
「〇龍院殿徳峰大雲居士
威正院殿本然良覚大姉(右2)」、
「瑞琳院殿天質妙祐大姉
〇〇院殿〇〇〇祐淳居士
方春院殿玉林幻〇〇童子(左2)」、
「諦良院殿謙外恭温居士
窕松院殿淑相智窈大姉
玄猛院殿祐岳道威居士
仙光院殿嶽宗悟大禪童子(左)」。
推測ですが右側の墓が13代国司広昌?、
中央の2基のどちらかが15代国司正久?、
左側の墓は17代国司就相と、
18代国司就孝の墓と思われます。
※奥方と子息は割愛。
「国司広孝の墓(左:墓碑銘読めず)」、
「〇聖院殿一天宗義居士(左2)」、
「天覚院殿照山本源大居士
桐林院殿鳳山如彩大姉
受徳院寛道致善居士
開了院智眼童女(右2)」、
「善良院殿遊楽安心大居士
泰齢院殿仙苑桃壽大姉
瑞應院殿亀峰玄齢居士
如幻院殿梅林自香禪童子(右)」。
14代国司広孝の墓(左)、
16代国司就直の墓(左2)、
22代国司純行の墓(右2)、
19代国司元善と20代国司迪徳の墓(右)。
こちら側は特定できました。
※奥方と子息は割愛。
「積翠院殿応道義大居士(左)」、
「親相夫人弥佐の墓(右:墓碑銘読めず)」。
21代国司親相とその妻弥佐の墓。
親相については前回訪問の際に記載済み。
重複するので省略させて頂きます。
左側の墓所にある22代純行は、
寄組士の志道元襄の次男で、
親相死後に養子となって家督を相続。
国司姓を名乗る事が憚られた為、
始め高田姓を名乗っています。
純行は幕長戦争の小倉口で奮闘し、
その功として国司家再興が認められました。
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