山口県熊毛郡 富永有隣墓所

富永有隣富永七郎右衛門の長男に生まれ、
幼少時に天然痘右目を失明したという。
藩校明倫館に学んた後に藩に出仕し、
小姓役から配膳役へと進みますが、
偏屈な性格が災いして見島へ配流。
その後に野山獄へ収監されており、
そこで吉田松陰と知り会う事となります。
密航による罪で投獄されていた松陰は、
偏屈ながら博識の有隣を評価し、
出所後に松下村塾の主宰となった後は、
有隣の放免運動を行っており、
その甲斐もあってが有隣は出獄。
松陰に松下村塾の講師として招かれ、
塾生に講義を行いました。
有隣の偏屈さはここでも変わっておらず、
塾生からの評判は良くなかったようですが、
松陰は彼を尊師と呼んで敬ったという。

その後に松陰が江戸に送られ死亡すると、
松下村塾を離れて秋穂二島村に移住。
私塾定基塾を開いていましたが、
諸隊のひとつである鋭武隊に参加しました。
維新後も鋭武隊に所属していましたが、
明治2年の脱退騒動に参加した為、
各地を転々として逃亡生活を続け、
高知大石圓に匿われていますが、
明治10年に捕縛。
国事犯として石川島監獄に送られ、
明治17年まで収監されています。


嘉祥院悳譽明道履齊居士」。
田布施町にある富永有隣の墓。
出獄後は熊毛郡城南村(田布施町)に移住。
実妹の元に身を寄せ私塾帰来塾を開き、
後進の指導に尽くしたとされ、
明治33年に死去しています。
国木田独歩は晩年の有隣に会い、
有隣をモデルとして富岡先生を執筆。
主人公の富岡先生は尊大な態度で人に接し、
門人にも疎まれる人物に描かれました。
晩年の有隣もこのような人物だったようで、
かつての教え子に疎まれましたが、
吉田松陰が松下村塾に招いて尊師と仰ぎ、
鋭武隊では隊士らを率いていたとされ、
更に脱退騒動後の逃亡生活中は、
彼を匿う不平士族もいました。
晩年も彼の私塾に通う子弟もおり、
尊大で偏屈なだけの人物ではなかった筈、
国木田独歩もその程度の人物ならば、
小説のモデルにはしなかったでしょう。

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山口県萩市 萩松陰神社
 境内に松下村塾が現存しています。
山口県熊毛郡 富永有隣終焉之地
 富永有隣が晩年過ごした場所。