萩の松陰神社は吉田松陰の実兄杉民治が、
実家の邸内に土蔵造りの祠を建立して、
松陰愛用の赤間硯と松陰の書簡を御神体とし、
その祠に祀ったのがはじまり。
その後、伊藤博文、野村靖ら門下生が、
宮崎八幡の拝殿を移築して境内を整備し、
松陰神社として県社に列格させています。
「大鳥居」。
鳥居中央の扁額は岸信介の揮毫。
この石造りの大鳥居をくぐると参道です。
脇の松陰神社と刻まれた石柱の文字は、
松陰の書簡から抜き出した自筆の文字という。
「明治維新胎動之地」碑。
佐藤栄作の揮毫による石碑。
明治維新100年を記念して建立されたもの。
「松下村塾」。
木造瓦葺き平屋建の小さな塾舎で、
当時のまま現存しています。
元々は杉家の庭にあった8畳の小屋で、
松陰は自宅の幽囚室で孟子や武教全書を講義し、
次第にこれを聞く近隣の子弟が増えた為、
この小屋に移って松下村塾として講義し、
後に10畳半が増築されました。
ユネスコ世界文化遺産。
「吉田松陰幽囚ノ旧宅」。
長州藩士杉百合之助の旧宅。
松陰の曽祖父杉文左衛門の頃の杉家は、
萩城下の川島に住居があったようですが、
大火で住居が焼失してしまった為、
祖父杉七兵衛が松本村に転居した後、
俳人八谷聴雨の別荘を父杉百合之助が購入し、
※現吉田松陰誕生地(記事はこちら)。
そこで民治や松陰が生まれ育ち、
嘉永元年にここに移り住んだようです。
※ここに引っ越す前に叔母が嫁いだ高須家に、
杉家は5年間程間借りして住んでいます。
この建物は藩士瀬能吉次郎の持家で、
借家であったという。
こちらもユネスコ世界文化遺産。
「幽囚室」。
松陰は伊豆下田で密航を図って失敗し、
江戸の伝馬町牢獄に収監され、
後に萩に戻され野山獄に入獄されます。
そこで富永有隣や高須久子等と知り合い、
彼ら11人の囚人に孟子や論語を講義。
その後出獄を許され自宅逼塞となり、
この部屋で幽囚の身となりますが、
近所の子弟に武教全書の講義を始め、
これが評判となって人が集まった為、
上記の小屋に移って松下村塾が開かれます。
松下村塾は元々叔父玉木文之進が開いた塾で、
近所の子弟を集めて教えていましたが、
文之進が官職に就いた為に一時閉鎖され、
後に松陰の外叔久保五郎左衛門が塾を引き継ぎ、
松陰が講義を始めるといつの間にか、
五郎左衛門も生徒となって、
松陰が松下村塾を主宰する事となります。
寺子屋のようなものであった玉木、久保塾から、
儒学、兵学、史学、そして尊皇攘夷の議論等、
全く性格の変わった塾に生まれ変わりますが、
松陰は安政の大獄で刑死してしまう。
残った久坂玄瑞等の塾生により、
松下村塾で勉強会が開かれていますが、
彼らの多くが尊攘運動に邁進し、
京都や江戸に出て行った為に塾は閉鎖。
慶應元年に元塾生馬島甫仙が塾を再開し、
近所の子弟に松陰の教えを論じていますが、
馬島は明治3年に大阪に召喚され、
再び塾は閉鎖されます。
明治5年に退官した玉木文之進が塾を再開。
多くの門弟らに教育していますが、
明治9年に萩の乱が発生すると、
養子玉木正誼を含む門弟の多くが参加し、
これを苦にして文之進は自刃してします。
その後杉民治が官職を辞して塾を再開し、
漢学などを教えていますが、
民治が私立学校校長に就任した為、
最後の松下村塾は閉じられました。
「本殿」。
現在の松陰神社本殿は昭和30年に建立。
世田谷のものより少し小さいようですが、
それでも充分に立派なものです。
「松門神社」。
松陰神社の本殿を昭和30年に建て替えた際、
創建当時の土蔵造りの旧社殿を、
松陰の門人を祀る末社として現本殿横に移築し、
末社松門神社として創建されたもの。
祭神は久坂玄瑞命、高杉晋作命、吉田稔麿命、
入江九一命、金子重輔命など52柱。
松陰神社には他に「吉田松陰歴史館」、
「宝物殿 至誠館」などがあるのですが、
何度も参りながらまだ一度も入った事が無い。
いつか一度くらいは入らないとと思いつつ、
いつでも入れるので後回しになっております。
■関連記事■
・東京都世田谷区 世田谷松陰神社(再訪)
世田谷にある松陰神社。
・萩市 吉田松陰墓所
萩の吉田松陰墓所。
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南千住の吉田松陰墓碑。