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つづき。
「興源院殿慈雲紹蔭大居士之塔」。
5代藩主立花貞俶の墓。
立花帯刀家当主立花茂高の次男に生まれ、
旗本立花弾正家の養子となっていますが、
柳河藩4代立花鑑任が継嗣なく死去した為、
末期養子となって家督を継ぎました。
治世で享保の大飢饉が発生して被害を受け、
幕府より1万両を借用。
また二ノ丸御殿の奥が手狭となった為、
3代立花鑑虎の隠居屋敷に奥御殿を移転し、
それを御花畠と称しています。
「等覺院殿廊融性瑩大居士之塔」。
6代藩主立花貞則の墓。
5代貞俶の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続していますが、
参勤交代から柳河への帰路、
豊前国大里浜で暴漢集団に襲われて死亡し、
そのまま柳川城まで運ばれ、
城内で病死したと公表されています。
※この事件は資料が少なく詳細は不明。
「大應院伝馨徳孔昭大居士之塔」。
7代藩主立花鑑通の墓。
5代貞俶の三男として生まれ、
兄の死により末期養子となって家督を相続。
四ヶ所通久を登用し踏車を普及させた他、
豪傑組による藩の制度改革や軍制改革、
財政再建を行い、倹約令も出しています。
「陽徳院元剛紹和大居士之塔」。
8代藩主立花鑑寿の墓。
7代鑑通の五男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続していますが、
家老小野勘解由に藩政を委ね、
豪傑組を弾圧していますが、
藩内で批判が起きた為に弾圧は終了し、
豪傑組も復職させています。
「體慈院殿博愛元長大居士之塔」。
9代藩主立花鑑賢の墓。
7代鑑通の四男立花鑑一の長男に生まれ、
8代鑑寿の養嫡子となり、
鑑寿の死去に伴い家督を相続しました。
豪傑組による藩政改革は続き、
徴税法の見直し、新田開発、湾岸埋立の他、
藩校伝習院を創設しています。
「含章院殿玉英鑑廣大居士之塔」。
10代藩主立花鑑広の墓。
9代鑑賢の長男として生まれ、
父の死去に伴い9歳で家督を継ぎますが、
僅か3年で病死してしまった為、
死は秘匿されて弟立花鑑備が跡を継ぎます。
「常明院叡智紹監大居士之塔」。
11代藩主立花鑑備の墓。
9代鑑賢の長男として生まれ、
兄の早逝によりすり替わりで藩主となり、
鑑広として将軍に初御目見した後、
鑑備と名を改めています。
御国入りした後に病気を患い、
御花畠で養生して過ごしますが、
公式行事にも出席できぬまま死去しました。
御霊屋は11代鑑備までで、
12代立花鑑寛以降はさらに奥の墓所。
「大仙院殿従二位勲三等
寶應鑑寛大居士塔」。
12代藩主立花鑑寛の墓。
一門の立花右京家に生まれ、
同じく一門の立花監物家の養子となり、
さらに11代鑑備の養子となり、
鑑備の死去に伴い家督を相続しました。
改革派の家老立花壱岐を登用し、
藩政の全権を壱岐に一任。
能力による役人登用と不要な役人整理。
租税緩和、殖産興業奨励など、
先進的改革を進め、
大きく財政は好転しています。
軍制の洋式化にも務め、
長州征伐に藩兵を派遣していますが、
王政復古後は新政府に恭順しており、
精鋭で編成された部隊を戊辰戦争に送り、
磐城戦争、会津戦争等で活躍させています。
明治42年、死去。
立花家の墓所はこの福厳寺の他、
東京都下谷区の廣徳寺、
東京都文京区の徳雲寺、
福岡県みやま市の霊明寺跡などの他、
初代立花宗茂正室で当主の誾千代の墓が、
熊本県玉名郡にあります。
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