生存説があることは英雄の条件のひとつ。
源義経や織田信長、明智光秀などなど・・
西郷隆盛にも生存説がありますね。
悲劇の最期を迎えたこれらの英雄達は、
庶民の生きていて欲しいという願望から、
「生き延びて大陸に渡った」
という類の話が出来上がります。
上記の英雄達は亡骸が不明だったりして、
生きている可能性あるパターンですが、
高杉晋作は彼らと違い病死しており、
葬儀の後に吉田に葬られていますので、
生存説が発生する筈ないのですが、
なんと晋作にも生存説があったのです。
「新聞集成明治編年史」第2巻より
明治8年12月発行神戸新聞138号の雑報に、
榊次郎子の報知として語られます。
「余は今月5日に高知県人田中直人君に、
偶然神戸の長狭通にて出会ったので、
自分の茅屋に招待した。
この田中君という人は余の親友。
彼との縁は元治元年の長州攘夷の時。
志を同じくして共に長州に走ったが、
その後の戊辰の年に東京で離別し、
この度久し振りの再会した。
時に田中君曰く「予は過る11月初旬、
長崎を出立して長門赤間ヶ関に滞留中に、
元毛利家の大元帥高杉晋作東行公に、
新地で偶然会い直ちに公の旅館に推参し、
色々と聞いてきた。
「先生は既に亡くなっているとばかり思っ
ていました。先生のお墓は吉田の清水山
にちゃんとあります。不思議な事です。
先生!今までどこに居たんですか?」
高杉公曰く
「我は丙寅の年に寸謀を用いて、
或る人に託して死んだことにしたが、
皆、これを信じてしまった。」と、
笑ってまた曰く
「我はその後支那に行き、
支那人のふりをして世界中をまわって、
帰ってきた」と。
予は
「お留守中、世の中はめまぐるしく発展し
ています」
と言うと、高杉公は大いに笑って
「百万の蒼生未だ春を知らず、
共にめでたい春を見る日も来るだろう」
と言われた時、長府より書簡来たので、
公は新地より船に乗って行ってしまった。
それから2日待ったが帰って来なかった。
それで長府に行って公の事を訪ねたが、
誰も知らなかった。
仕方ないので新地の旅館に一書を託して、
空しく昨日当港に着いた。」と。
彼は嬉しげに公が英国で撮った写真を、
余に見せながらこの事を語った。
余は写真と話で大いに力を得た。
田中君は「高杉公は多分、来年あたりに、
世に出てくるだろうと思う」と云い、
今月7日朝に大阪をたち東京に向かった。
余は元々水戸人で以前長州攘夷の時に、
長州で奔走した際高杉公の恩恵を受けた。
その恩は海より深く山より高く、
田中君の話で公が生きていると知り、
誠に死中に再生の心地がした。(以下略)
※現代語訳してます。
原文は「新聞集成明治編年史」第2巻。
これを報知した榊次郎子という人物は、
ちょっと調べてもよくわからない。
子と付いているので子爵なのでしょうか?
それとも「氏」の意味か?
水戸の人との事ですが、
第一次東禅寺事件の榊鉞三郎の親族?
晋作に会った高知の田中直人も不明。
会った時のやり取りがとても晋作っぽく、
本当の事のように感じられます。
生きていたら世界中を回ったであろう事も、
確かにそれっぽい。
勿論明治9年に晋作が世に出てきた話は、
一切ないようですし、
世界中を旅する中国人が居たら、
その形跡くらい残されているはず。
榊次郎か田中直人の与太話なのでしょうが、
作り話でも実際に会った人物でないと、
リアルな話はできないでしょう。
仮にこれが本当の事ならば、
「我は丙寅の年に寸謀を用いて、
或る人に託して死んだことにしたが、
皆、これを信じてしまった。」
「我丙寅ノ年寸謀ヲ用ヒ或人ニ託シ置シガ」
の或る人は晋葬儀を仕切った白石正一郎?
晋作と白石がグルになって・・・。
雅とおうのと望東尼も騙して、
生きたまま棺桶に入って、
信頼できる奇兵隊士ら数名が、
空の棺桶とすり替えて・・・みたいな(笑)。
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