慶応3年4月。山縣狂介(有朋)は、
湯玉の庄屋石川良平の長女お友と結婚。
※石川良平は後に下関市長となっています。
婚礼は4月11日より始まり、
12日には宴が開かれました。
婚礼の場所は正確には判っていませんが、
下関でも吉田でも無い場所なので、
石川良平宅ではないかと思われます。
その石川良平宅の場所が、
イマイチよくわからない。
豊浦町史二「宇賀の今昔」に、
宇賀地区の地図が載っていますが、
このあたりというだけしかわかりません。
追記:後に調べたら場所の特定が出来ました。
下関市豊浦町湯玉 庄屋石川邸跡
さて、福田侠平、石川小五郎、入江和作、
時山直八、交野十郎、杉山正一郎、
南野市郎等奇兵隊幹部が祝いに駆けつけ、
終夜を通じてどんちゃん騒ぎ。
ところが夜半頃、下関より飛脚がやって来て、
「高杉東行殿病気重々最早活露更々無」
※最早活露更々無(もはや活路さらさら無し)
と伝えられます。
しかしこれを聞いた面々は、
直ぐに下関に飛んで行ってはおらず、
朝になって山縣、福田が下関に向い、
時山らは吉田の奇兵隊屯所へ帰り、
石川は新郎不在の宴を続行したようです。
危篤の場に全員が行くわけには行かないし、
奇兵隊にこの事を知らせねばならない。
また結婚式を途中で止めるも縁起が悪いので、
トップ2人が向かったという事でしょう。
しかし既に晋作は亡くなっており、
彼らは臨終に間に合いませんでした。
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