湯玉浦は北浦にある漁村のひとつですが、
鯖釣山が浦を守るように聳えていた為、
良港として漁民のみでなく北前船も寄港し、
旅館なども設置されて栄えていました。
吉田松陰の[廻浦紀略]では、
150戸で近頃200余戸になったと書かれ、
繁栄の様子が感じられます。
「湯玉港」。
現在も小型の漁船が停泊する港町で、
色々な魚が釣れる絶好の釣り場として、
釣人も沢山糸を垂らしています。
また、湯玉は大敷網漁の発祥地との事。
※大型定置網漁の一種。
鯖釣山という名称から推測すると、
昔は鯖が沢山獲れたのでしょう。
この湯玉浦には松陰が北浦巡視の際に宿泊し、
中山忠光も潜伏中にここに宿泊しました。
松陰が宿泊した場所は定かではありませんが、
[廻浦紀略]には善念寺の記載があり、
頗る高朗の地にあると書かれています。
「善念寺」。
確かに高い場所にあり浦が一望できます。
長府藩初代藩主毛利秀元の位牌が安置され、
藩の庇護を受けていました。
この善念寺の駐車場に碑があります。
「宇賀本陣 板場跡」。
宇賀とは湯玉を含む周辺の地名ですが、
実際には宇賀本陣という記述は存在しません。
参勤交代に使われた宿場町のように、
しっかりと本陣が置かれた場所とは違い、
領内巡視の為に藩主が宿泊するような場所は、
臨時に本陣が置かれただけです。
この場所には旅籠中村屋があったようで、
碑は善念寺の先代住職が建てたものとの事。
だたこの中村屋が本陣であった記録はなく、
碑が建てられた理由はわかりませんが、
旅籠なので松陰が宿泊した可能性はあります。
ではどこが本陣であったかというと、
長州藩6代藩主毛利宗広の領内巡見の際、
庄屋石川家が本陣となった記録があります。
※御国廻御行程記(1742)
「庄屋石川家跡」。
国道191号線の湯玉駅から、
北500m行った先にある信号の東側が、
庄屋石川家の邸宅があった場所。
現在は駐車場と個人宅になっていますが、
当時のものと思われる蔵が残っています。
石川邸は上記のように藩主が宿泊した他、
中山忠光が北浦で潜伏した際に、
ここに宿泊して持て成された記録があり、
2~3日滞在した後、
宇賀本郷の大専寺に向かいました。
また、幕末の当主石川良平の娘お友は、
奇兵隊軍監山縣狂介に嫁ぎ、
後の山縣有朋夫人山縣友子となっています。
婚礼もこの石川家で行われ、
最中に高杉晋作危篤の知らせが届きました。
石川良平は2代赤間関市長も務めています。
先程の中村屋の碑の件ですが、
石川邸が本陣として使われた際に、
料理を作って運んだのかもしれません。
それなら板場跡という碑も間違いではない。
肯定的に推測すればですが・・。
■赤間関街道/萩往還の宿場町
■関連記事■
・山縣の結婚式の日に晋作が危篤となる
忘れられない結婚式にはなったでしょう。
・松陰の北浦巡視③
松陰は湯玉で一泊しています。
・中山忠光の逃避行②
忠光は石川邸で2~3日もてなされました。