下関市吉田には高杉晋作墓所の東行庵があり、
また奇兵隊陣屋跡もあります。
奇兵隊は結成以来各地に転陣していますが、
内訌戦で奇兵隊ら諸隊が勝利した後、
吉田に本陣を移すことになりました。
これには影響力を強める奇兵隊の発言力を、
中央から遠ざける為であったとされます。
この吉田の地は寄組士山内家の治める地で、
転陣に先駆けて晋作と山縣狂介(有朋)が、
領主である山内家の屋敷に向かいます。
当時の当主は山内梅三郎通恂。
幼くして当主である父を亡くし、
5歳で家督を継いだ17歳の少年で、
吉田、埴生4千石を領していました。
晋作と山縣は屋敷に訪れて梅三郎に面会。
「奇兵隊は処々を転々としましたが、
藩公の許しを得て吉田の諏訪に、
定着したいと存じます。どうぞよろしく」
と2人は梅三郎に告げます。
山内家家臣らは押し黙りましたが、
宿老涌喜但馬は、
「我ら主人は幼く前主を失った後は、
ひたすら鍛錬を重ねてきました。
しかしこの多難な難局を渡っていくには、
容易なことではありません。
前主ならお答えもできましょうが・・。
藩公には先日まで直談で参ってました。
申された諏訪の地は分家の領地で、
分家とも相談することとしますので、
今日のところはお引取りください」
と答えました。
晋作と山縣はそれを聞いて引き下がります。
その帰り道。2人が馬を進めていると、
鉄声が2~3発して続いて1発鳴った。
先頭の馬は飛び退いたようですが、
続く馬は落馬寸前だったという。
飛び退いた馬は晋作の馬で、
落馬寸前の馬が山縣でしょう。
この襲撃は涌喜の指示によるもので、
襲撃者は山内家の諸隊正名団幹部笹尾卓馬、
津田直人、乃木四郎、村井武雄らでしたが、
後に彼らは晋作の指揮下に入っています。
「いきなり来て領地に屯所を置くなど、
寄組山内家に対し無礼にもほどがある。
ちょいと脅かしてやれ」
といったところだったのでしょう。
山内の屋敷では分家へ早馬を出し、
同行して萩を訪ねる準備をしていましたが、
そこへ再び晋作と山縣が現れる。
先日と変わって慇懃に先日の無礼を詫び、
藩主の直書を渡すと、
是非相談なさって下さいと頭を下げます。
晋作と山縣は無礼が過ぎたと反省し、
失礼の無いように正式な順序を追って、
藩主に直書を頂いたうえで再び訪問し、
奇兵隊を西の守りとする為、
ここが必要な事を丁寧に説明しました。
山内家でも長州藩の為になるならばと、
萩に赴いて相談に伺うということになり、
晋作らは、
「奇兵隊が吉田でお世話になるのであれば、
総督は当主山内梅三郎殿にお願いしたい」
と申し出ます。
その後は談笑となり、
山縣は自分は馬が苦手であるから、
良い師匠はいるかと聞いたりしています。
※山内家の馬術師南山県玄蕃に師事し、
後に馬術は上達しています。
その後に山内梅三郎は奇兵隊総督となり、
奇兵隊の屯所は正式に吉田に決定しました。
■関連記事■
・カエルを食べたかった晋作
晋作が奇兵隊陣屋を視察した際の出来事。
・山縣の結婚式の日に晋作が危篤となる
忘れられない結婚式にはなったでしょう。
・高杉晋作の葬儀
葬儀は白石正一郎が取り仕切りました。