長崎県五島市大円寺町にある大円寺は、
五島列島を支配した福江藩五島家の菩提寺。
五島家が宇久家を名乗っていた時代、
16代宇久盛定が松月庵を再興し、
大円寺と改称して五島家菩提寺としました。
「大円寺山門」。
藩主家の菩提寺だけあって立派。
本堂も立派ですが建て直されたもの。
本堂左側が大円寺墓地なのですが、
五島家当主の墓は相当荒れ果てており、
門扉や灯篭等が瓦解しています。
更に幕末期の藩主の墓が見当たらない。
調べると大円寺川の対岸に、
江戸中期以降の墓所があるとのこと。
「五島家墓地」。
対岸には橋があってすぐに行けます。
入口の石門は結構低いもので、
門前の車道が後から嵩上げされた模様。
参道には石燈籠が並べられていますが、
雑草が生い茂って行くのに勇気が必要です。
奥に入ると沢山の石燈籠と墓石が現れます。
家臣らに寄進された石灯篭が並ぶ風景は、
他の藩主家墓所と同様で見慣れた雰囲気。
「福江藩第九代藩主五島盛繁の墓」。
9代藩主五島盛繁の時代から、
外国船が出没するようになります。
この為に海防強化が必要となり、
その資金を商人達の献金で賄った為、
商人達に武士の身分を与えました。
彼らから色々な意見が出てくるようになり、
個人の才能を重視する序位昇進制を採用。
その流れで藩校育英館も発展しています。
「福江藩第十代藩主五島盛成の墓」。
10代藩主五島盛成の墓。
先代よりの財政難はなお続き、
禄高改正を行って財政再建を図りました。
福江藩は城主格大名でありながら、
長い間築城を許されませんでしたが、
しかし海防政策の一環として、
念願であった築城の許可を得ます。
城の完成は次代に持ち越しますが、
隠居後も実権を持ち続けました。
「従五位五島盛徳乃墓」。
11代藩主五島盛徳の墓。
盛徳の時代に石田城が完成。
日本一新しい城となりました。
※記事はこちら。
藩主就任後も父が実権を握っていますが、
盛徳が病弱だったという理由のようです。
廃藩置県後の明治8年に父に先立って死去。
既に家臣も居なくなっていたために、
歴代のように寄進された石燈籠が少ない。
これを不憫に思ったのかもしれませんが、
墓前に並ぶ石燈籠の寄進者は、
父である五島盛成の名でした。
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