長崎県五島市福江 石田城跡

五島列島の全域は、代々福江藩五島家が治めていました。
壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後、
平清盛の弟平家盛が宇久島に流れ住み、宇久氏を名乗ったという。
その後、福江島に移り住んで五島氏を名乗っています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵等にも参加した後、
徳川幕府に1万5000石を認められ、福江藩を立藩しました。

はじめの居城であった江川城は焼失してしまいますが、
以後は築城が許されず、石田陣屋を藩庁として幕末に至ります。

幕末に入って海防が重要になってくると、
嘉永2年に城の建設が認められました。
海辺に造られた海城は、完成までに14年の歳月を要し、
文久2年に完成した石田城は、日本で一番新しい城となります。
※松前城より新しい。

高速船の発着場から見えるのは、
城を造る際に大波を防ぐ為に建てられた防波堤

常灯鼻」。
灯台としての役目も持つこの防波堤が造られた後は、
容易に築城することができたとされ、
漁民にとっても重宝されました。
現在も同様に防波堤の役目を果たしています。


石田城大手門」。
野積みされた武骨な石垣が、重厚な門によく似合います。
築城にあたった石工は、大津(滋賀)の集団だったそうですが、
大津には海が無かったので、海城を造るのに相当苦労したでしょう。


長崎県立五島高等学校」の校門。
なんと城内に高校があります。
先ほどの大手門を入って登校するようです。
城跡が高校となっているところは結構ありますね。


校舎に書かれたスローガン。
城跡」と書いて「まなびや」と読むのが面白い。


大手門側からは行けませんが、
城内には五島観光歴史資料館五島市立図書館
五島市福江文化会館が建てられており、
どれも城っぽい造りになっています。

さて、石田城から南西側に武家屋敷通りというのがあります。

武家屋敷通り」。
2代藩主五島盛利の時代に、各知行地に居住する家臣団を城下に集め、
支配権を強化した「福江直り」という政策で、
家臣団がこの付近に移り住みました。

武家屋敷通りと呼ばれていますが、当時の面影は石垣と屋敷門のみで、
残念ながら屋敷のほとんどが現在の家屋となっています。

福江武家屋敷通りふるさと館」。
後藤家家臣藤原家の邸宅跡に建てられた観光施設。
屋敷は後に造られたものですが、門や庭園は当時のものです。


武家屋敷通りの塀は、
石垣に「こぼれ石」と呼ばれる小石を積んだ珍しいもの。
塀を乗り越える侵入者があると、小石が落ちて音が鳴る仕組み。
なるほどよく考えられています。
とはいえ、台風の時なんて大変そうですね。
これは「ふるさと館」に張ってあった手書きの絵です。


江川城跡」。
たまたま泊まったホテル「五島第一ホテル」は、
江戸時代初期の居城である江川城があった場所らしい。
建物の脇に石碑が建てられています。

幕末期の福江藩は、
領地が遠島だったこともあり攘夷派でしたが、
一方で福江島の南に位置する支藩の富江藩は佐幕派。
※第3代藩主五島盛次の弟五島盛清が3000石を分地され、
3000石ながら幕府より大名格として扱われた。

慶応4年、海防強化の為に福江藩が富江藩を吸収することが決定。
これに富江藩側が反発し「富江騒動」という事件が起こります。

この合併には、藩主や重臣たちだけでなく、富江の領民も反対。
富江藩領の領民は次々と富江に集まり、
15歳以上の男衆は竹槍を持って武装決起し、
福江藩関係者を襲撃したり、焼き討ちしたりしました。
これに対し福江藩は、藩士30名ほどに武装させ藩境に待機。
一触即発の状態の中、膠着状態が続きます。

ここへ来て双方の重臣らが話し合い、事態の収拾に努め、
富江藩側が降伏する事となりました。
この騒動は長崎役所にも届き、
騒動の説明の為に富江藩家老2名が、長崎役所に出頭します。

長崎役所には、当時井上聞多が出仕しており、この騒動を引見。
井上は富江側に同情し「今は辛抱するように」と諭じます。
井上は、薬師寺久左衛門高松清一と共に福江島に渡り、
富江藩8代五島盛明と面談して、叛意が無い事を確認します。
薬師寺と高松は富江領地を視察し、領内宣撫に努めますが、
領民の権利論争などに手を焼いたとされています。
その後も、藩主、家臣らは旧領回復を目指し、
新政府に復領を嘆願しますが、結局戻る事はありませんでした。
もちろん福江藩自体も、廃藩置県で消滅しているのですが・・・。

【福江藩】
藩庁:石田城
藩主家:五島家
分類:1万5000石、外様大名

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