菰野藩は江戸時代を通じ土方家が治め、
石高1万2000石の小藩でしたが、
年貢の取立てが比較的緩やかだった為に、
一度も一揆が起こらなかった珍しい藩です。
藩主の土方家は織田家家臣で、
土方雄久の頃には織田信雄に仕えており、
信雄が豊臣秀吉に改易されると、
秀吉の家臣となっています。
秀吉死後も豊臣秀頼に仕えていますが、
徳川家康の暗殺を企てたとして改易。
連座して庶長子土方雄氏も改易となり、
佐竹義宣に身柄を預けられましたが、
関ケ原の戦い前に許されて家康に仕え、
伊勢国菰野に1万2000石を与えられました。
父雄久も別に1万5000石を与えられ、
その所領は次男で嫡子の土方雄重が継ぎ、
土方宗家として田子藩、窪田藩と続きますが、
3代土方雄隆の代にお家騒動が発生した為、
宗家は改易処分となっています。
※後に弟の土方雄賀に家名存続が許され、
宗家は旗本土方家として続きました。
菰野藩では2代土方雄高が城下の整備や、
諸法の制定を行い藩の基礎を創りますが、
以後の代には出費の増加や奸臣の悪政、
隠居した7代土方雄年の散財などにより、
財政は破綻寸前となっていたという。
この状況に9代土方義苗は改革に乗り出し、
質素倹約や経費節減、米の備蓄等を行い、
一連の政策により財政再建を成し遂げます。
10代土方雄興は稲の品質改良が成功し、
品質よく収穫量の多い米が完成。
茎が強くて病害虫にも強かったことから、
この米は[関取米]と呼ばれるようになり、
元祖ブランド米となりました。
また領内では茶園も整備されており、
[菰野茶]は品質の良さで知られたという。
「菰野町立菰野小学校(菰野陣屋跡)」。
菰野陣屋跡に建てられている小学校。
訪問時は夏休みで児童は登校していません。
学校はやはり気を使いますね。
変質者と思われたら嫌なので・・。
学校の周辺には堀の石垣や土塁等、
遺構らしきものもありますが、
陣屋時代のものかはわかりません。
初期の陣屋は代官所程度の規模でしたが、
織田信雄の娘が土方家に嫁ぐ際、
「堀もないような大名に娘はやれない」と、
信雄が言った為に、
突貫工事で堀を掘った逸話があります。
「菰野城跡」。
城跡の碑があるはずだと、
校庭をうろうろしますが見つからない。
いくら夏休みでも40代のおっさんが、
小学校をうろうろしてると不審者ですので、
職員室まで行って近くにいた先生に、
碑のある場所まで案内して頂きました。
明治初期の菰野陣屋。
幕末の菰野藩の藩論は、
比較的早い時期に恭順で統一されました。
東征軍先鋒隊に二個小隊を派遣し、
藩が誇る関取米も兵糧として出しています。
【菰野藩】
藩庁:菰野陣屋
藩主家:土方家
分類:1万1000石、外様大名
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