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江戸時代に庶民の犯罪を取り締まるのは、
その領地の領主です。
銭形平次や大岡越前などのドラマは、
幕府直轄の江戸での話。
町奉行がいて与力や同心、目明しがいる。
基本的には諸藩も似たような機構でしたが、
しっかり町奉行を配置してるところもあれば、
代官が兼任している場合もありました。
中級武士が町奉行や代官などとして任命され、
与力や同心等の足軽が職務にあたりますが、
上手く取締まることが出来ず、
庶民を雇って取り締まるようになります。
これが目明しで一般の庶民ではなく、
どちらかというとヤクザな人達が多く、
威光を笠に着て威張る者や、
恐喝まがいの行為を行う者もいたという。
それには仕方ない理由もありました。
取締りは裏世界に詳しくないと勤まらないし、
探索や密告も行うので嫌われ者にもなる。
善良な庶民がなれるような役ではないし、
専業として代々するような仕事でもないので、
必然的に渡世人が任にあたるようになります。
たとえば遊女屋の親方もこれにあたるわけで、
売春業をしながら取締りという事になる。
これが二足のわらじの語源ともいう。
清末藩盗賊方の目明し榊屋仁作は、
遊女屋坂輪楼の亭主で家業は女房に任せ、
清末藩から十手を預かって目明しとなり、
蛇のように忌み嫌われる不浄役人でした。
仁作が白石正一郎の小倉屋にやってきたのは、
安政5年の12月8日。
京都の目明し中座甚助を連れて来ています。
月照を追って来たが見失ってしまい、
諸国の浪人が出入りしているとのことで、
月照の行方を聞きに来たという。
白石は不在中に薩摩の侍衆と来られたが、
黒崎船で渡航したと伝えると、
今度来訪したらお知らせ下さいと、
2人は去っていきました。
翌日も中座は他の者と共にやって来たので、
白石はご馳走して何事もなく帰らせます。
小倉屋には平野国臣も度々止宿していますが、
筑前で平野を探索しているとのことなので、
白石は匿おうと色々手を打ちますが、
なかなか良い潜伏先が見つからない。
そんな中で仁作が筑前の盗賊方を連れてきて、
平野の事を根堀り葉堀り聞いてくる。
翌日も筑前の目明しを連れてきて、
再び平野の事を聞いてきたので、
白石は知らぬ存ぜぬを通します。
白石が代官乃美織江と一酌傾けていると、
仁作がやってきて真面目な顔で、
「薩摩の田中直之丞の人相書が届いたから、
取りに来ました。
白石殿は良くご存知の者の筈」と言う。
白石はその様な人物は存じ上げぬと言い、
口上書を見せてもらいそれを複写します。
翌日も仁作と筑前の目明しがやってきて、
平野と昵懇と聞いたと言い、
執拗に白石に尋問してきましたが、
白石は体よ追い返しました。
筑前の目明しは平野の愛人を寄越すなど、
色々と目星をつけて平野捜索に奔走しますが、
平野は一向に捕まらない。
仁作も筑前捕方を連れて何度も来ています。
万延元年12月27日。
仁作が平野が捕らえられたと報告に来た。
その後、白石は京都へ旅行に行き。
※記事はこちら。
その際に弟の白石廉作から手紙が来ます。
不在中に横柄な態度で訪ねてきたという。
「大旦那は不在?ナニ京?何用かは存ぜぬが、
物見遊山とはさぞ裕福な事じゃ。
平野は片付いて安心というものだが、
我らも一方ならぬ苦労をしたものだ。
あんたに言っても仕方ないが、
我らを塵屑のように追い払っておいて、
のうのうと遊山に行くとはご身分な事だ」。
と仁作がのたまい更には、
「在番や筑前方、公儀に悪いようにせず、
白石家から盗賊匿いの咎人として、
おぬしら兄弟に縄目の恥を掻かさぬように、
心を配って首尾よくしてやったのに、
それにも懲りずに高慢な態度、
少々我慢もできかねるでござんす」。
と煙管で火鉢をたたきながらに言います。
これには廉作も逆上し、
脇差を抜いて斬り付けようとしますが、
「およしなさい。
分別無いのは苦労が足らぬ証拠。
身の程知らぬではあきれてしまいまさぁ」。
と煙管を投げ出した。
寸でのところで家人に止められ、
廉作は我を取り戻します。
仁作はそれでそのまま帰り、
以降は小倉屋に来ることはありませんでした。
それから時が過ぎ時代は攘夷熱が紛糾。
京の天誅騒ぎで目明しが殺されるようになる。
遥か京都での話しですが攘夷に湧く下関。
仁作も首をさすって警戒するようになります。
文久3年5月16日。
目明し榊屋仁作から使いが来ます。
つづく。
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