榊屋仁作①

①/

江戸時代に庶民の犯罪を取り締まるのは、
その領地の領主です。
銭形平次大岡越前などのドラマは、
幕府直轄の江戸での話。
町奉行がいて与力同心目明しがいる。

基本的には諸藩も似たような機構でしたが、
しっかり町奉行を配置してるところもあれば、
代官が兼任している場合もありました。
中級武士が町奉行や代官などとして任命され、
与力や同心等の足軽が職務にあたりますが、
上手く取締まることが出来ず、
庶民を雇って取り締まるようになります。
これが目明し一般の庶民ではなく、
どちらかというとヤクザな人達が多く、
威光を笠に着て威張る者や、
恐喝まがいの行為を行う者もいたという。

それには仕方ない理由もありました。
取締りは裏世界に詳しくないと勤まらないし、
探索密告も行うので嫌われ者にもなる。
善良な庶民がなれるような役ではないし、
専業として代々するような仕事でもないので、
必然的に渡世人が任にあたるようになります。

たとえば遊女屋の親方もこれにあたるわけで、
売春業をしながら取締りという事になる。
これが二足のわらじの語源ともいう。

清末藩盗賊方の目明し榊屋仁作は、
遊女屋坂輪楼の亭主で家業は女房に任せ、
清末藩から十手を預かって目明しとなり、
蛇のように忌み嫌われる不浄役人でした。
仁作が白石正一郎小倉屋にやってきたのは、
安政5年の12月8日。
京都の目明し中座甚助を連れて来ています。
月照を追って来たが見失ってしまい、
諸国の浪人が出入りしているとのことで、
月照の行方を聞きに来たという。
白石は不在中に薩摩の侍衆と来られたが、
黒崎船で渡航したと伝えると、
今度来訪したらお知らせ下さいと、
2人は去っていきました。

翌日も中座は他の者と共にやって来たので、
白石はご馳走して何事もなく帰らせます。

小倉屋には平野国臣も度々止宿していますが、
筑前で平野を探索しているとのことなので、
白石は匿おうと色々手を打ちますが、
なかなか良い潜伏先が見つからない。
そんな中で仁作が筑前の盗賊方を連れてきて、
平野の事を根堀り葉堀り聞いてくる。
翌日も筑前の目明しを連れてきて、
再び平野の事を聞いてきたので、
白石は知らぬ存ぜぬを通します。

白石が代官乃美織江と一酌傾けていると、
仁作がやってきて真面目な顔で、
薩摩の田中直之丞の人相書が届いたから、
 取りに来ました。
 白石殿は良くご存知の者の筈
」と言う。
白石はその様な人物は存じ上げぬと言い、
口上書を見せてもらいそれを複写します。
翌日も仁作と筑前の目明しがやってきて、
平野と昵懇と聞いたと言い、
執拗に白石に尋問してきましたが、
白石は体よ追い返しました。

筑前の目明しは平野の愛人を寄越すなど、
色々と目星をつけて平野捜索に奔走しますが、
平野は一向に捕まらない。
仁作も筑前捕方を連れて何度も来ています。

万延元年12月27日。
仁作が平野が捕らえられたと報告に来た。

その後、白石は京都へ旅行に行き。
※記事はこちら
その際に弟の白石廉作から手紙が来ます。
不在中に横柄な態度で訪ねてきたという。
大旦那は不在?ナニ京?何用かは存ぜぬが、
 物見遊山とはさぞ裕福な事じゃ。
 平野は片付いて安心というものだが、
 我らも一方ならぬ苦労をしたものだ。
 あんたに言っても仕方ないが、

 我らを塵屑のように追い払っておいて、
 のうのうと遊山に行くとはご身分な事だ
」。
と仁作がのたまい更には、
在番や筑前方、公儀に悪いようにせず、
 白石家から盗賊匿いの咎人として、
 おぬしら兄弟に縄目の恥を掻かさぬように、
 心を配って首尾よくしてやったのに、
 それにも懲りずに高慢な態度、

 少々我慢もできかねるでござんす」。
と煙管で火鉢をたたきながらに言います。

これには廉作も逆上し、
脇差を抜いて斬り付けようとしますが、
およしなさい。
 分別無いのは苦労が足らぬ証拠。
 身の程知らぬではあきれてしまいまさぁ
」。
と煙管を投げ出した。
寸でのところで家人に止められ、
廉作は我を取り戻します。
仁作はそれでそのまま帰り、
以降は小倉屋に来ることはありませんでした。

それから時が過ぎ時代は攘夷熱が紛糾。
京の天誅騒ぎで目明しが殺されるようになる。
遥か京都での話しですが攘夷に湧く下関。
仁作も首をさすって警戒するようになります。

文久3年5月16日。
目明し榊屋仁作から使いが来ます。

つづく。
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