奇兵隊出身の軍人といえば、
軍監であった元帥陸軍大将の山縣有朋ですが、
中将として4人を輩出しています。
※鳥尾小弥太、三浦梧楼、三好重臣、滋野清彦。
彼らは長州藩士で農民や町民出身ではなかったため、
明治2年の諸隊再編の際に解雇されませんでした。
その後、長州閥が形成されて出世街道に乗るわけです。
※話はそれますが、長州閥とはいえ山口出身の元帥は、
山縣の他、岩国藩の長谷川好道、総理にもなった寺内正毅と、
その息子の寺内寿一の計4人しかいません。
鹿児島出身の元帥が、西郷隆盛を入れて10人もいるのに対し、
意外と少ないなと感じますね。
総理大臣の数と真逆なのが面白い(山口8名、鹿児島3名)。
政治の長州、軍事の薩摩ってところでしょうか?
さて、身分を問わぬ奇兵隊でしたが、
やはり最後は身分がモノを言うわけで、
戦争が無くなると真っ先に解雇されるのが、
農商出身者だったわけですね。
彼らは脱隊騒動や萩の乱などで反抗するのですが、
あえなく鎮圧されてしまいます。
そんな中、奇兵隊出身の町人で、
少将にまで登り詰めた人物がいます。
それが竹中安太郎。
竹崎の髪結いに勤める「ヤス公」と呼ばれていた少年で、
その頃、威勢の良かった奇兵隊に憧れていました。
同じく竹崎には、研ぎ屋の娘で男勝りの菊という女がおり、
台場建設を手伝ったり、隊の訓練を眺めたりしています。
挙句、労咳で療養中の高杉晋作のところへ毎日来て、
奇兵隊に入れてくれるように頼み、ついに許可を貰います。
彼女が奇兵隊唯一の女隊士高橋菊です(記事はこちら)。
これを聞いたヤス公は「お菊さんが入ったのなら、
俺も入らにゃ男がすたる」と奇兵隊に志願。
ヤス公は入隊にあたり竹中安太郎と名乗りました。
竹崎の真ん中に生まれた安太郎という意味です。
まだ15,6歳の少年だった為、
戊辰戦争では大した役に立たなかったでしょうが、
その後、西南戦争、日清戦争、義和団の乱に従軍し、
少しずつ昇進して、日露戦争時には大佐となっていましたが、
奉天包囲戦の際に予備役となり少将になります。
晩年は広島で暮らし、隠棲してそこで死去。
ちなみに浜田城に「報国忠勇之碑」の建設を発案したのは、
当時、歩兵第二十一連隊長であった竹中(記事はこちら)。
それほど能力のあった人物ではなかったのでしょうが、
町人ながら予備役とはいえ将官にまで昇進したのは、
極めて特異な例でしょう。
■関連記事■
・奇兵隊女隊士 高橋菊
竹中が奇兵隊に志願したきっかけとなった女隊士。
・無敵幸之進
この強そうな苗字は晋作が命名したもの。
・数少ない奇兵隊出身の成功者 藤田伝三郎
藤田財閥の創始者は奇兵隊出身。