宇部市といえば総合化学メーカー宇部興産。
高校野球の強豪宇部商業。
カッタ君で有名なときわ公園。
※下の2つはちょっと古いかな?
そんな宇部近郊八千石を領有していたのが、
長州藩永代家老家の福原家です。
幕末の当主である福原越後元僴は、
禁門の変の責で切腹した三家老の一人。
福原越後
彼は徳山藩主毛利広鎮の六男として生まれ、
寄組士佐世家の養子となっています。
優秀であった為に家老に昇進しますが、
その際に福原家の養子となって家督を相続。
改革派として尊皇攘夷運動を推進しました。
寡黙で果断、温厚でもあり名臣として、
高く評価されていたようです。
八月十八日の政変で長州藩が追放されると、
藩兵400人を率いて伏見に布陣。
伏見街道で大垣藩等と激突し、
自らも負傷するなど奮戦しましたが、
虚しく撃退されて後退しています。
それでも竹田街道を進軍し、
会津藩や新選組と交戦しますが、
またもや撃破されて退却しました。
帰国すると藩政は俗論党が主導権を掌握。
俗論党政府は征討軍の要求を受け入れ、
※三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放。
国司信濃、益田親施らと切腹となりました。
「宇部護国神社」。
福原越後を主祭神として祀り、
戦死した家臣22柱の御霊も合祀。
崩山という場所に建てられた為、
始めは[崩山招魂社]と称されましたが、
[崩]という名前が良くないのか、
後に[維新招魂社[と称されます。
昭和14年に[宇部護国神社]と改称。
「福原越後公像」。
本殿脇にある福原越後の銅像。
始めは神原公園に建てられていましたが、
昭和19年に軍に徴収されて失われました。
後の平成22年にここに再建されています。
写真整理してて気がつきましたが、
本殿の写真撮っていませんでした。
この宇部護国神社の左側には、
本来の場所にある維新招魂社があります。
先程の本殿は空襲で焼けた後、
隣に再建されたもの。
こんな田舎にも空襲があったんですね。
痛んだ階段を登って行くと、
山城跡のような石垣が積まれており、
その上に招魂場があります。
中央の招魂碑の両脇に、
22柱の墓碑が列びます。
全て禁門の変の戦死者ということですが、
明治以降の階級が書かれた墓碑や、
豊前国戦死と書かれた墓碑があったような。
※勘違いかもしれません。
「福原越後顕彰碑」。
綺麗に文字が判別できるのは、
地元の人の手入れがされているから?
「献装条銃拾六挺」碑。
どういういきさつかわかりませんが、
装条銃を16挺ほど献納したようです。
戦死者の所持していたものなのか、
供物として戦死者に捧げたものでしょうか?
この下に装条銃が埋めてあるのかな?
次は[福原史跡公園]に向かいます。
福原は萩に在住していましたが、
領地にはお屋敷はありました。
その福原邸の敷地が公園となっています。
公園には萩屋敷の正門を、
2/3に縮小したものがあります。
門前の石段の石は、
神原公園にあった銅像の台座の石とのこと。
永代家老家の屋敷だっただけあって広い!
小藩の陣屋より広いです。
宗麟寺には福原家の墓があるそうですが、
一般公開されていないようです。
※年一回11月に参詣のために開放。
時間もなかったので今回はこれにて終了。
福原越後と同じく切腹させられた、
三家老のひとり国司信濃の墓も、
この宇部市にあるそうですが、
今度はそちらをまわってみたいと思います。
季節柄落ち葉がたくさん落ちていました。
みよちゃんは落ち葉を踏む音が気に入って、
喜んでカサカサと踏みしめていました。
子供はこんなことでも楽しめるんですね。
玩具やゲームやTVなんていらない。
みよちゃんには自然そのものが遊び場です。
感傷的になったところで、
一句読めたら素敵だなと思うのですが、
残念ながらその才能はないようです。
現段階では親バカぶりを発揮して、
娘の写真を散りばめるのが関の山。
■関連記事■
・山口県周南市徳山 三家老幽閉之地
三家老は徳山藩に幽閉されています。
・広島県広島市 旧国泰寺跡
幕府の総督府が置かれた国泰寺。
・山口県宇部市 万倉護国神社
三家老の一人国司親相が祀られています。
・山口県萩市 益田家墓所
永代家老家益田家歴代の墓所。
・山口県萩市 東光寺
三家老の墓碑も建てられています。