青森県八戸市 南宗寺/八戸南部家墓所

盛岡藩3代南部重直が継子なく死去した為、
幕府はその所領10万石を2万石減封し、
重直の弟七戸重信に盛岡藩主を継がせ、
2万石を末弟中里直好に与えます。
これが八戸藩南部家のはじまり。

盛岡藩は重直に実子が居なかった事により、
後継者争いで割れて混乱していたとされ、
これ憂いた重直は継嗣を自ら選定せず、
将軍徳川家綱に後継者の選定を頼みました。
基本的に世嗣断絶は改易もありえますが、
南部家が鎌倉より続く名門である事と、
先手を打って選定に頼んだ事が幸いし、
2万石厳封で重信への相続に至ります。

なぜ直好に2万石与えて立藩させたのか?
色々と推測はできますが、
世嗣断絶は改易になりかねない事情で、
そのまま弟の七戸重信に継がせるのは、
幕法の破壊に繋がります。
そこで厳封の判断をしたのでは?
その厳封分2万石をどうするかとなって、
天領にすると色々面倒が発生するので、
南部家の人間に継がせるべきであろうと、
中里直好に白羽の矢が立ったのでは?
そんな幕府の都合(推測)で立藩した八戸藩。直好は2万石を持って八戸藩を立藩し、
南部直房と名を改めます。
幕府は最良の采配と考えたのでしょうが、
これがなかなか南部家には厄介で、
直接所領を与えられたということは、
八戸藩は徳川家の直参家臣となります。
つまり藩主の弟とはいえ、
盛岡藩南部家と同格となってしまい、
これは盛岡藩としては面白くない。
八戸藩主を亡きものにして断絶させて、
八戸を取り戻そうという考えもあったはず。
そんな中で初、2代藩主が不審死を遂げ、
暗殺ではないかと噂が立つに至り、
その噂が伝わって幕府は調査を開始。
証拠は見つからなかったのですが、
盛岡藩もそのような嫌疑がかけられると、
今度こそ改易にもなりかねないと、
盛岡藩と八戸藩は対等と表明しました。
そんな確執も時間が解決してくれたようで、
お隣同志、宗家と別家の関係、
津軽家という共通の敵がいた為、
徐々にゆるやかな上下関係となった模様。
幕末には野辺地戦争を共に戦っています。

そんな八戸南部家の墓所は、
南宗寺東側の長者山中腹にあります。

八戸南部家墓所」。
南宗寺は八戸南部家の菩提寺。
今回は時間が無かったのと、
歩いて行った先が目的の墓所だったので、
南宗寺境内には行っていません。


一番上段の歴代藩主の郭には、
同型の五輪塔が整然と並んでいます。


清涼院殿前金吾次将
 天性息大居士(左)」、
仙渓院殿前勢州太守
 仁道宗壽大居士(中)」、
正見院殿前甲州太守
 覺雲宗智大居士(右)」。
左から初代南部直房、
7代南部信房、4代南部広信の墓。
初代直房は盛岡藩3代重直の弟で、
盛岡藩初代南部利直の七男。
八戸藩成立前は母の実家の中里姓を名乗り、
中里数馬直好と称していたようです。
7代信房は6代南部信依の長男。
治世では天明の大飢饉が発生しており、
城下の大商人達に多くの借金したり、
領内で御用金を徴収したりしています。
4代広信は3代南部通信の長男で、
25年の治世の殆どが凶作であったという。


三玄院殿前遠州太守
 〇〇徹證大居士(左)」、
寶性院殿前甲州太守
 禪岩宗安大居士(右)」。
左から3代南部通信、6代南部信依の墓。
3代通信は盛岡藩3代南部重信の四男で、
2代南部直政の末期養子となり家督を相続。
文武に優れた人物であったようで、
様々な藩政改革を行って成功させ、
17年の治世で藩の基礎を構築しました。
6代信依は5代南部信興の長男に生まれ、
父の隠居に供なって家督を相続しました。
武芸練習所を設置して武芸を奨励しますが、
治世では凶作が相次いで財政は逼迫。
持病で17年の治世で隠居しています。


龍津院殿前金吾校尉
 珠巌宗滉大居士(左)」、
天祥院殿前遠州太守
 月澗宗真大居士(中)」、
惇徳院殿前左金吾校尉
 仁峰榮大居士(右)」。
左から5代南部信興、2代南部直政、
8代南部信真の墓。
5代信興は4代広信の長男として生まれ、
父の死去に伴って家督を相続。
先代より続く凶作はなおも続き、
大地震も発生して津波の被害を受け、
未曾有の大恐慌となっています。
2代直政は初代直房の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
非常に才覚のある人物であったようで、
将軍徳川綱吉の側用人も務めていましたが、
39歳で急死してしまった為、
父と同じく毒殺が噂されました。
8代信真は6代信依の三男として生まれ、
実兄である7代信房の養嫡子となり、
信房の隠居に伴い家督を相続しました。
野村軍記を登用して藩政改革に取り組み、
逼迫した財政を好転させることに成功。
城主格にも昇進していますが、
相次いで息子に先立たれる不幸に苛まれ、
薩摩藩から養子を迎えています。


従四位源朝臣南部信順之墓(中央)」。
9代藩主南部信順の墓。
薩摩藩8代島津重豪の十四男として生まれ、
8代信真の養嫡子となっています。
父重豪は14男12女と子宝に恵まれ、
男子の多くは他藩の養子に出されました。
但し実際に藩主となれたのは、
嫡男の島津斉宣と次男奥平昌高(中津藩)、
13男の黒田長溥(福岡藩)と、
この信順の4人のみ。
他は早逝したり廃嫡されたりしています。
信順は実兄の福岡藩主黒田長溥と共に、
島津斉彬の薩摩藩主擁立に尽力。
戊辰戦争では実家が薩摩藩だった事から、
列藩同盟に疑いを掛けられますが、
戦争末期まで恭順することなく、
しかも兵を消耗することなく終えます。
※野辺地戦争を除く。
小藩で立地的な問題もあるでしょうが、
戦時の立ち回りとしては秀第点でしょう。


常行院殿寂室紗照大姉(右)」、
南部麻子之墓(左)」。
9代信順の正室鶴姫と、
11代当主南部麻子の墓。
鶴姫は8代信真の八女として生まれ、
2歳で薩摩藩から来た信順と縁組し、
12歳で正式に婚姻しました。
文久の改革で江戸から八戸に移りますが、
居住の翌年に30歳で死去しています。
11代麻子は盛岡藩15代南部利剛の次女。
10代当主南部栄信の妻でしたが、
夫に先立たれた為に女戸主となりました。
※明治11年に南部利克に家督を譲り隠居。

上記の墓の他に初代側室霊松院の墓、
8代信真の長男南部信経
8代信真の次男南部信一の墓があります。

※2020/07/19画像差し替え。
※2022/05/14画像及び文書追加。

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 七戸藩は盛岡藩の支藩。

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