豊臣秀吉の義兄木下家定の三男木下延俊は、
関ヶ原の戦いで終始東軍として活躍し、
その功績により3万石を与えられ、
日出城を築城して日出藩を立藩。
初代延俊の正室加賀の方は細川忠興の妹で、
この縁から熊本藩細川家の支援を得て、
その居城の日出城が築城されています。
築城には人柱が建てられたと伝わっており、
発掘の際に人骨が見つかったという。
後にその人柱を祀る祠も建てられました。
「日出城大手門跡」。
日出城は別名暘谷城とも呼ばれ、
大手跡には暘谷城跡の碑があります。
中国の古書淮南子の一文には、
[日出於暘谷 浴于咸池]とあり、
この暘谷という言葉から命名されました。
現在は日出町立日出小学校の敷地で、
大手門跡は小学校の正門となっています。
「鬼門櫓」。
日出城は廃城令よって取壊しになった後も、
望海櫓と鬼門櫓が校舎として残されますが、
大正期の建替によって望海櫓が取り壊され、
鬼門櫓も民間に払い下げられました。
平成20年に所有者より日出町に寄付され、
現在の位置に移築されています。
珍しいのは鬼門方向の角を欠けさせており、
鬼門の角を無くしている事。
右角が欠けているのがわかるでしょうか?
明治初年の鬼門櫓の写真。
現在の場所は鬼門櫓があった場所ではなく、
月見櫓があった場所とのこと。
大手門跡や鬼門櫓の並びには、
日出の2大スターの銅像があります。
「瀧廉太郎像」。
[荒城の月]で知られる明治の作曲家。
彼は日出藩家老家である瀧家の出身でした。
「帆足萬里像」。
豊後三賢の一人。
儒者ながら経学、史学、科学に精通し、
藩に請われて財政改革を行いました。
「天守台跡」。
小学校と中学校の間の道を海沿いに進むと、
日出城の天守台が見えます。
3階建ての層塔型天守がであったという。
「裏門櫓跡と時鐘」。
裏門はそのまま小学校裏門となっており、
裏門櫓の石垣が残されています。
その上には鐘が設置されていますが、
これは藩政時代の時鐘であったもので、
毎日十二刻の時を知らせていました。
金属供出からも地元民の手で守られ、
戦後はこの場所に設置されました。
現在は児童が鐘を鳴らしています。
「日出藩 藩校「致道館」跡地」。
現在の日出町立日出中学校の敷地は、
藩校致道館があった場所。
安政5年から明治4年の廃藩まで続き、
校舎は女学校、役場、区裁出張所、
図書館と用途を変えて使用されますが、
その後の日出中学校の開校に伴い、
藩校家屋は解体移築されています。
「致道館」。
元の位置から城を挟んで反対側に移築され、
現在は修復整備されています。
校名は庄内藩や土佐藩も用いており、
致道とは[道を致す]という意味で、
[学問や武道、人道を極める]という事で
藩校の名前にはぴったりな言葉ですので、
使われやすかったのでしょうね。
14代俊方、15代俊程、16代俊愿は、
すべて13代木下俊敦の息子達で、
清末藩8代毛利元純も俊敦の子です。
俊敦は弘化4年に隠居していますが、
隠居後も非常に長生きして、
子供らが死去した後も存命していました。
日出町の名物は[城下かれい]。
城の下の海岸付近で獲れるマゴガレイで、
この周辺は海底から清水が湧き出ており、
プランクトンが多く発生する為、
それを食べて成長するマゴガレイは、
淡白かつ上品な味になるようです。
【日出藩】
藩庁:日出城
藩主家:延俊流杉原木下家
分類:2万5000石、外様大名
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