福岡県宮若市 犬鳴御別館跡

所領に海岸線がある諸藩の多くが、
海側に藩庁を定めていますが、
これはとても理に適っていました。
海運という非常に迅速な交通手段が使え、
内陸の領地から米や物産をを使って、
下流の城に運びこむ事も出来ます。
流通は財政を大きく左右しますので、
必然的に海側に藩庁が集まりました。
また防備の面でも非常に有利で、
海が巨大な堀の役目を果たしますので、
守り易いという利点もあります。

福岡城もそういった城のひとつで、
筑前国入封の際に名島城から、
※こちらも海側の城でした。
発展に伸び代のあった福崎に城を移し、
黒田家ゆかりの地名福岡に名称を変更。
町人の町である博多との二極都市となって、
福岡藩の城下町として発展し、
現在も九州一の都市となっています。

時は過ぎて幕末。
砲艦外交で開国を迫られた幕府でしたが、
脅威は海岸線に藩庁を持つ諸藩も同じ。
戦国時代には鉄壁の防御を誇った海側が、
軍艦の大砲によって弱点へと変わります。
長州藩から内陸の山口へ藩庁を移し、
支藩の長府藩下関戦争に伴い、
内陸の勝山に要塞を建設しました。
福岡城も海からの脅威は同じで、
藩主を非難させる城を建設するべきと、
攘夷派の家老加藤司書が発案し、
犬鳴御別館の建設が開始されます。


犬鳴ダム」。
平成6年に完成した県営ダム。
犬鳴川遠賀川の治水と、
宮若市の利水に利用されています。
渓谷に沿って犬鳴谷村がありましたが、
建設決定に伴って村民は集団移転しました。
この村は御譜代組足軽が形成した集落で、
藩有林の維持管理を目的に移住し、
それが評価されて村人は上級足軽として、
苗字帯刀が許されていたそうです。


司書の湖」。
ダムによって出来た人口湖は、
公募で司書の湖と名付けられましたが、
これは福岡藩家老加藤司書にちなんだもの。


ダムを歩くだけで子供達は楽しいようで、
みよちゃんゆきちゃんも大はしゃぎ。
最近は二人で手を繋いで歩く事が多く、
みよちゃんもお姉ちゃんとして、
弟のゆきちゃんを引っ張っています。

司書の湖に沿って上流を進み犬鳴御別館へ。
残念ながら天気が悪く小雨模様でした。

ダムの端より600mくらい登ると、
車止めがありここからは歩き。
どうもゴミの不法投棄が多かったようで、
仕方なく車の通行を禁止した模様。
粗大ゴミの不法投棄とか最悪ですよね。
しかも史跡に捨てるなんて・・。

ここから徒歩で200m登ります。

犬鳴御別館跡」。
堀跡に架かった橋から奥側が城域か?
広場となっており桜も植えられています。


広場からの犬鳴御別館全景。


大手門」。
二層楼門単層八脚門があった大手門跡。
そこまで大きいものではなく、
ちょっとしたお屋敷程度でしょうか。
47万石の国主大名の別邸と考えると、
少し小さい気もします。


加藤司書忠魂碑」。
大手門を登ったところに建てられています。
加藤司書は中老加藤家の11代当主で、
義兄で10代当主加藤徳蔵が、
実家である三奈木黒田家を継いだ為、
11代当主となった人物。
嘉永6年にプチャーチンが来航した際、
長崎警備を担当した福岡藩は対応に追われ、
加藤を派遣して対応に当たらせました。
この功績が評価されて藩の執政に就任。
藩内尊皇攘夷派の中心人物となっています。
ロシアによる砲艦外交の経験のある加藤は、
福岡城が海防に不向きであることを懸念し、
有事に藩主が非難する別館の建設を、
11代藩主黒田長溥に進言。
犬鳴御別館の建設を開始しました。
加藤は長州征伐では周旋にあたり、
三条実美らの大宰府移遷に貢献しています。


搦手門」。
別館内部は木々に覆われており、
点在する石垣以外は何もない。
広場の全景が全てと言ってもよいでしょう。
大手門と違い石垣の崩れが多いようで、
門があったんだろうな程度です。

加藤の尊攘運動は緩やかなものでしたが、
月形洗蔵中村円太平野国臣ら藩士らは、
過激な行動を繰り広げます。
これらの過激な尊攘派藩士らに対して、
藩主黒田長溥は意にそぐわないまでも、
厳しくあたることはありませんでしたが、
長州再征で幕府に態度を示す必要が生じ、
藩内佐幕派によって御別館建設が、
藩主を別邸に隔離し実権を掌握する為のもの
と非難された為に長溥は激怒。
同時期に中村円太の脱獄事件が発生した為、
長溥は筑前勤王党の弾圧を開始し、
福岡藩による乙丑の獄が発生しました。
勤皇派藩士ら140名以上が捕縛され、
月形洗蔵らは斬首。
野村望東尼は流刑となり、
加藤も切腹を言い渡されました。

この弾圧により福岡藩の勤皇派は全滅。
維新の波に乗り遅れる事となります。
後に形勢が逆転した際には、
佐幕派の家老らも切腹させられており、
福岡藩の人材は皆無となってしまい、
戊辰戦争に出兵した福岡藩兵は疎まれ、
諸藩に笑われる有様だったとか。
加藤や月形が生存していたならば、
そんなことにならなかったでしょう。

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