美濃斎藤家の本拠地だった稲葉山城は、
織田信長によって攻め落とされた後、
岐阜城として新たに造営され、
織田信忠の長男織田秀信に与えられますが、
秀信は関ケ原の戦いで西軍に加担し、
福島正則や池田輝政らに攻められて降伏。
秀信は出家して岐阜城は廃城となります。
岐阜城下には新たに加納城が築城され、
徳川家康の娘婿奥平信昌が10万石で入封。
岐阜城下町を受け継いだ加納城下町は、
城下町と宿場町という2つの側面を持ち、
さらに大きく発展しました。
「加納城本丸大手門跡」。
本丸跡が加納公園として整備されています。
スマホを持つ人達が大手門跡から動かない。
たぶんこれはポケモンGOでしょうか?
彼らは説明板や碑の前に陣取るので、
観光客にとってはとても邪魔な存在。
写真を向けても説明板を読もうとしても、
全くそこから動いてくれません。
これはモラルの問題ですね。
ブームが去るのが待ち遠しい・・。
「本丸北側の石垣」。
加納城石垣は良い状態で保存されています。
関ケ原以降の築城ですが石垣は野面積み。
岐阜城より転用されたからとのこと。
「本丸跡」。
外側は石垣でなのですが、
内側は土塀となっています。
内部は広々とした公園となっており、
訪問時は保育所の運動会が行われ、
子供達が走っている姿は、
先ほどの人達と違って微笑ましい。
思わず顔がほころびます。
加納藩奥平家は3代で無嫡断絶。
代わって大久保忠職が入りますが、
すぐに明石藩へ加増転封となり、
入れ替わりで松平光重が7万石で入って、
3代続いて淀藩に転封となっています。
続いて安藤信友が入封しますが、
次代安藤信尹が藩財政を悪化させ、
家中は乱れて百姓一揆も勃発。
信尹は強制隠居を命じられ、
安藤家は減封処分も受けました。
後に3代安藤信成が磐城平藩に移封され、
岩槻藩より永井直陳が入り藩主家は安定。
以後は6代永井家加納藩は続いています。
加納藩は米国公使館警護に藩兵を派遣し、
譜代藩としての役目を果たしており、
5代永井尚典や6代永井尚服も、
奉行職や奏者番などを歴任してます。
尚服は若年寄兼会計総裁職に就任しますが、
鳥羽伏見の戦いの敗報を聞いて辞任。
急いで国許に帰国しますが、
帰国日は新政府軍到着の前日で、
新政府軍に対して恭順の意を示しますが、
幕政参加経験が徒となって謹慎処分となり、
藩兵派遣の命に従ったことにより、
許されて謹慎を解かれています。
【加納藩】
藩庁:加納城
藩主家:永井家
分類:3万2000石、譜代大名
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